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shinobu様ご推薦

「あいつ」 (1991年日/監督:木村淳/出演:岡本健一、石田ひかり、浅野忠信) 
洪水が起きて東京が水没することを願いながら暮らす光(岡本健一)。
彼は幼なじみの貞人(浅野忠信)にしつこくつきまとわれ、日課のようにイジメにあって いた。
そんなある日、貞人に逆らって頭を負傷した光に、超能力がつく。 
超能力によって自分との立場を逆転させていく光に、貞人は焦りをおぼえ、
自称宇宙人の祖父(フランキー堺)と暮らす光のガールフレンドの雪(石田ひかり) にちょっかいを出すなど、
行動をエスカレートさせていく。 ホームレスの父を持ち、鬱屈した毎日を送る少年が、不器用といえば不器用に、 
幾重にも遠回りしながら自己を確立させていく姿を“超能力”という飛び道具を用いることで
、シュールな味わいをかもしだしつつ描いた青春映画。 
なかでも、貞人の光に対するむやみな執着と屈折した友情(?)が、物語の重要 なポイントを占めている。
幼なじみながら、手ひどいイジメを続ける貞人は、光 が授かった超能力で反撃すれば、今度は雪につきまとい、
あげくに彼女を誘拐して光の家に押しかけ「一緒に自衛隊に入ろう」と無理やり申し込み書類に拇印を 押させるなど、
その暴走ぶりが深読み可能で面白い。 洪水を待ち望む光の部屋に置かれた水槽、川、プール、水びたしの部屋など、
さ まざまな“水”の光景が主人公たちの揺らぐ心情を伝えて印象的だが、タイトル の「あいつ」に関して言えば、
中盤、光が河原で叫ぶセリフ「あいつ(貞人)に 会いたくねぇよ、あいつに会うの恐いよ」とあるように、
これは光と貞人という 腐れ縁でつながった二人の少年の「あいつ」に対する複雑な感情の物語なのかも しれない。 
貞人役の浅野忠信は、これが3本目の映画出演作だが、このときからセリフ回し にも仕草ひとつにも、
いわゆる“芝居っ気”が全くなく、“貞人という少年”が 自然にそこに居る風情なのが末おそろしい。 
この他の10代時代の作品で、それらしいエピソードがあるものを挙げると「青春 デンデケデケデケ」(大林宣彦監督)には、
バンド仲間と同性愛の噂を流される くだりがあったし、「眠らない街 新宿鮫」(滝田洋二郎監督)では、
彼の演じる青年が手にする改造銃の造り手(奥田瑛二)がホモセクシュアルで、
真田広之 扮する主人公の刑事にねちっこくキスを迫っていた。 
直接そうしたエピソードはないものの「FRIDE DRAGON FISH」(岩井俊二監督)の 殺し屋ナツロウと、
彼の雇い主であるテロリストのトビヤマとの関係も意味深。 
ちなみに、作家の柴田よしきは、ミステリー作品に登場する人気キャラ・山内練 を、この作品の浅野忠信のイメージから作ったそうだ。


「東京ゾンビ」 (2005年日/脚本・監督:佐藤佐吉/出演:浅野忠信、哀川翔) 
※注:以下の文章はネタバレ含むのでご注意ください。
ゾンビ+お笑い、という一見ふざけたコンセプトの中に、一人の青年の成長&男 同士の絆を実はかなりマジメに描いた一本。
が、そのテーマを描くための小道具 として、そこかしこにホモネタが散りばめてあるのがミソ。
舞台は未来の東京、消火器工場で働くハゲのミツオ(哀川翔)とアフロのフジオ (浅野忠信)は、
いつかロシアへ行って最強の男になるべく柔術の練習に明け暮 れている。
そんなある日、二人がうっかり殺してしまった上司の死体を埋めに、 
産業廃棄物のゴミ山“黒富士”に向かうと、そこでは次々ゾンビが蘇りつつあり ……。
という前半では、師匠格のミツオと、彼に依存しっ放しのフジオの、師弟愛とも 兄弟愛ともそれ以上ともとれる関係が描かれるが、
“黒富士”を訪れた彼らが、 下半身裸の少年の死体を埋めにきた男の教師を発見
(このときの死んだ少年の白 いパンツに包まれたお尻の撮り方がフェティッシュ)、
フジオが発作的に怒りを おぼえて、シャベルで男を殴りつけるあたりから、
中学時代の担任教師にレイプされたことが彼のトラウマだと暗示され、これが終盤までの伏線になっていく。 
その後、ゾンビ騒動のさなか、コギャルを助けてゾンビに噛まれたミツオは「サヨナラだけが人生だ」と自ら川に飛び込み、
フジオと別れ別れに。5年ののち、 ミツオを失ったフジオは、柔術の腕を磨き、
金持ちの客の前でゾンビと素手で戦うゾンビファイターになっていた。
が、そうなった彼にゾンビファイトの興行主 (古田新太)が惚れこんでいる、という設定が面白い。
何かというと抱きつき、 キスを迫り、フジオに蹴飛ばされたりするのだが、それでも彼はあきらめない。 
これらのエピソードから、かつて犯されていた少年でも、男に惚れられるように なれば一人前、
もしくは男は男に惚れられるようにならないと一人前の男ではな い、という裏テーマも深読みできる。

それでも監督の佐藤佐吉は、彼の脚本を元にとんでもない映画(「殺し屋1」「 極道恐怖大劇場 牛頭」)
を撮った三池崇史より常識人?良くも悪くも?なので 、最後は家族愛に目覚めたフジオが、
バイクを駆って妻子とともにGo To ロシア 、というエンディングを迎えることになる。
けれど、とはいえそれもフジオが“ 少年時代の性的トラウマ”から脱却できてのこと。

全体を覆う“中学生男子的発想”と、監督一作目ということもあって演出のアラ が目につくところが少なくなく、
それが観る人の評価を分けるところだろうが、 主演二人の「実際にこんな連中いるんじゃないか」と思わせられる、
自然で息の合った掛け合いが楽しめる。私的には殿下・楳図かずおの「もぎとってる?」が 一番笑えた。
やはりこの人はただ者ではないです??。



「ジョージ・マイケル~素顔の告白~」 (2004年英/監督:サザン・モリス/出演:ジョージ・マイケル、アンドリュー ・リッジリー)
つい先日、本作のプロモーションも兼ねて、結婚を控えた恋人(男性)とともに 来日したジョージ・マイケル。
その取材内容などを見たうえで見ると、彼が現在 の立ち位置を得るにあたって、
自分のセクシュアリティの所在を明らかにする= カミングアウト、という行為がいかに重要だったのか、
という事がよくわかるド キュメンタリー作品。
子供時代の思い出からアンドリューとの出会い、ワム!でのデビューと成功、解散とソロ活動、
アメリカで大きな成功を得るも、レコード会社との訴訟問題によ り活動を停止、
復活後も政治的発言でバッシングを受けるなどの紆余曲折のアーティスト活動の軌跡に加え、
その間、彼のプライベートに起こったさまざまな出 来事までが赤裸々に綴られていく、という内容ながら、
あくまでも“一人のアー ティストが実人生と創作活動について語る”という一点にテーマが絞られているせいか、
下世話さは一切なく、むしろ清々しい印象が残るのが本作の美点。その 原因は使用されているインタビューの多くが、
ジョージ本人および彼の近親者な ど身近に居る人物のものということ(他にも予告編やチラシにあるとおり、
エル トン・ジョンやマライア・キャリー、ボーイ・ジョージなどのコメントが差し挟 まれるものの、これらはあくまでサシミのツマ的扱い)に加え、
何よりこれが愛 の物語として描かれているため。 その“愛”とは音楽への愛のみならず、
彼のプライベートを支えた二人の恋人( どちらも男性)、そして母親への愛、という観点が本作を貫いている。
ワム!時 代の輝かしい活動の軌跡が「バッド・ボーイズ」「クラブ・トロピカーナ」「ケ アレス・ウィスパー」など
数多くのヒット曲とともに描かれる前半は、ジョージ ・マイケルというアーティストの稀代のメロディ・メーカーぶりを知るには十分 ながら、
あまり重要視されず駆け足で語られるのに対し、中盤、ソロ活動によっ てキャリアの頂点にいた彼が
ロック・イン・リオで出会った青年と恋に落ちるエピソード以降、映画はジョージの実人生におけるエピソードを追う方向へとシフトし、
彼の愛とアーティストとしての創作の因果関係までを追っていくのだ。
結果、当時のフィルムやインタビューを繋ぎあわせた間から見えるのは、スーパ ースターとしての名声など無関係な、
あまりに正直で無防備なひとりの男の姿だ 。
恋人がAIDSの宣告を受けた衝撃を胸に、フレディ・マーキュリー追悼コンサー トで「愛にすべてを」を全力で歌い、
その彼を失ったことで「ジーザス・トゥ・ ア・チャイルド」を作るものの、さらに母親を皮膚ガンで亡くしたことから、
政治的言動へ傾倒し、あからさまなブッシュ政権批判のPVを作りアメリカでバッシング、などのエピソードの合間に、
例の「L.A.のトイレで逮捕」事件の顛末も語られ、そのあけすけなカムアウトと私生活の吐露ぶりは、今さらとはいえちょっと驚くほど。
けれど、驚きが強ければ強いほど、すべてを語らなければという本 人の意気込みと、
この告白によって彼が得る(だろう)魂の自由というものが立 ちあがってくる。 
自身のセクシャリティの所在を明らかにしたことで得た、確固とした立ち位置( スターとしてではなく、ひとりの男としての)。
それを得て、はじめて新譜のプ ロモーションに笑顔で向かえるようになった姿には、アーティストとして、
人間 としての成熟が感じられ、好き嫌いを超えて思わず拍手を贈りたくなる潔さがある。
見終わると、彼のこれまでの音楽と現在のスタンスを祝福したくなる内容は 、
このタイプのドキュメンタリー作品として、ラストの新譜のヒット以上に成功といえるかもしれない。



「僕の恋、彼の秘密」 (2004年台湾/監督:DJチェン/出演:トニー・ヤン、ダンカン・チョウ) 
「2004年上半期台湾ボックス・オフィスNo.1!待望の話題作いよいよ日本公開!! 」(チラシ裏面より)
と鳴り物(?)入りで今期お正月映画として公開された一 篇です。
ストーリーは、田舎を出て台北へ出てきたばかりの純情少年ティエン(トニー・ ヤン。本当に純朴そうな雰囲気がハマり役)が、
着いたその夜に出会ったイケメ ンのバイ(ダンカン・チョウ)にひと目ぼれ、
いろいろな過程を経て一夜を共にし、初恋を成就させたかと思いきや、バイはつれない態度を示す。
フラれたもの と思いこみ、落ち込むティエンだが、実はバイには愛する人と一緒にいれない秘 密があって……。
徹頭徹尾ゲイ・コミューンのなかで話が進んでいくので、男同士の恋というテー マが、
障害どころかごく当然のものとして描かれていくため、ラストまで安心して見ていられると同時に、
どこか物足りない印象を受ける人もいるかもしれません。
いわゆる「ボーイズラブ」物にたとえて語られることの多い作品ですが、
物語の すべてが主人公の初恋の成就、ひいては“初体験”に向かって走ってゆくさまは 、
ティエンとバイの偶然の再会など、お約束なエピソードも含めて、往年の「お とめちっく少女マンガ」の男性版のようです
(物語の中心が「初体験」にあると ころなど、吉田まゆみ的というか)。

これは、やはり女性監督ならではの視点・ 演出? そんななので、物語の語り口もあくまでライト、
場面転換もテンポよく(さすが に新人監督なのでたまにモタつくときもありますが)、
各場面の盛り上げにもポップミュージックをふんだんに使い、ベッドシーンもセクシーというよりはキュ ート、
恋愛の“色気”よりも、初恋の“甘酸っぱさ”を強調する演出、映像で、 
ハッピーエンドのラブストーリーに酔いたい方にはおすすめの作品だと思います 。 
全体的にコメディ仕立てなので、笑いながらあっさり見れるというのもあるし、 主人公のティエンはもとより、
彼の友人でオネエのユー、CC、アランなど、登場 人物に誰ひとり悪意のある人間がいないのも、
作品全体がほのぼのムードで包まれている要因でしょう。超プレイボーイで美少年食いと噂されるバイにしても、
彼の中ではそうせざるを得ない理由があってのことですし、そうしたある種ユー トピア的な人物描写も、少女マンガ的といえるかも。 
何にせよ、細かいことを気にせず楽しめる「可愛い」印象の作品ですので、
デー ト・ムービーにはお薦めだと思います。
寒い季節、台北の夏の「17歳的天空」( 原題)の陽射しを浴びてみるのも、楽しいかもしれません。 
ちなみに、タワーレコードから創刊されたゲイ・ライフ・スタイル・マガジン「yes 」に掲載された、トニー・ヤンと橋口亮輔氏の対談が、
撮影の裏話などわかって 面白いです。興味おありの方はぜひご一読を。



「バッド・エデュケーション(2004年スペイン/監督:ペドロ・アルモドバル/出演:フェレ・マルチネス、 ガエル・ガルシア・ベルナル)
気鋭の映画監督として活躍するエンリケ(フェレ・マルチネス)。
彼のもとに、 ある日突然、神学校時代の旧友であるイグナチオ(ガエル・ガルシア・ベルナル )が訪ねてくる。
かつての面影もなく、アンヘルと名を変えたという彼にエンリ ケは戸惑うが、
イグナチオは自分が書いたという脚本をエンリケに見せ、自分を 起用してこれを映画化してほしいと依頼する。
その脚本を読みはじめたエンリケ だが、そこに書かれていたのは、自分たちの過去にまつわる辛い事件だった。
はたして彼らが少年時代に受けた「バッド・エデュケーション(悪い教育)」と は? 
という冒頭からミステリアスなムードで流れていく物語は、ここ数年のア ルモドバル作品では背景に退いていた、
生々しいゲイセクシャルの空気が濃密に たちこめる内容となっている。 

アルモドバル曰く「カトリック文化と教会権力、同性愛の軋轢を描いた」という 物語は、たしかに神学校内部の腐敗や、
生徒への性的虐待などを描きだすもので はあるけれど、そもそもカトリックの教義に馴染みのない日本人の視点で見るためか、
どうしてもアルモドバルの自伝的要素のほうが強く印象に残る。とはいえ 、レイプ、殺人、麻薬など、
次々ストーリーに絡んで登場する過剰なまでの事件 の羅列は、アルモドバル得意の語り口とはいえ、
やはりフィクションに違いない と思わせられるドラマチックさを作品に与えているのだけれど。 
とまれ、過剰さに彩られた物語は、どこまでが真相でどこからが創作なのかの境 界線を曖昧にしていき、
映画は謎をはらんだまま撮影を開始する。結果、迎える ラストシーンで、実は一番感動的なのは、
その後のエンリケについて語られる字 幕が出た瞬間なのだが、この場面には
「生きて創作を続けた者だけが、最終的な 勝者になる」
というアルモドバル自身の信念(おそらく)が言葉として表現されており、
そこまでに描かれる事件の数々を乗りこえても、エンリケが表現者としての道を捨てないことが知らされることで、
何かを「描かずにはいられない」人 間の背負った業と同時に、それゆえの希望もほの見えるのが、
短いシーンながら こちらの心を掴むのだろう。 
いささか硬い話になってしまったけれど、もうひとつ、この映画の重要な側面に ついて言えば、
こればガエル・ガルシア・ベルナルのための映画なのだ。主人公 エンリケが彼に惹かれていく、
その目線を通して描かれるイグナチオ=アンヘル の姿は、まさにファム・ファタールそのもの。
出会いの瞬間から、プールで泳ぐ 若い肉体、妖艶なドラァグクイーン姿に至るまで、彼の姿を追い続ける粘りつく ようなカメラワークが、
その存在そのものを物語を支える謎そのもののセクシャ ルなイコンに変えていく。
逆を言えば(乱暴な言い方だが)この“ラテンの恋人”の凝縮された魅力を追う だけで、
この映画は結構楽しめてしまうのだ。その意味ではガエル・ガルシア・ ベルナルの滴るような魅力に捧げられた映画、
と言ってもいい。その美を甘受し 、その毒を味わうことで、充分、
観客には「バッド・エデュケーション」が施さ れていくのだから。

あらしのよるに(2005年日本/監督:杉井ギサブロー/声の出演:中村獅童、成宮寛貴)
ロングセラーの人気絵本を原作に、お正月用ファミリー映画として公開される本 作……
けれど、予告編を見た時に、ほわほわと丸っこいデザインのメイが「今わ たしを食べようと思いませんでした?」
と女性的な口調で尋ねる姿を見て得た「 え?これはちょっと違うんでは?」という予感を確認すべく、
公開初日に劇場へ足を運んでまいりました。
予感を裏付けるように、公開直前には出演もしているKABA.ちゃんがナビを務め、 
「恋するcafe」などとあざといタイトルを冠した特番が放送されたり、某一週間 誌での「これは恋愛映画だ!」という見出しの記事が出たり、
原作者自らによる 恋愛論の本は出ているわで、疑いはますます強くなっていたのですが、結論を言えば、それは間違いではありませんでした。
狼のガブと山羊のメイ、あらしのよるに、お互いの姿も見えず匂いもわからない状態のなかで、
一夜を同じ小屋で過ごした2匹は意気投合し、「あらしのよるに 」を合言葉に再会を誓う。
晴天のもとで彼らは互いの正体を知るが、気が合うこ とは変わらず「秘密の友達」として絆を深めていくものの、
その関係はすぐにそ れぞれの種族の知ることとなり、共に相手をスパイすることを命じられた2匹が 選んだ道は……。
というストーリー展開のなかで語られる、種族を超えた絆とか 、信頼関係の大切さとか、自分たちの運命を決断する勇気とか、
マイノリティに 対する迫害とか、そういうものは確かに伝わってくるので、メッセージの表現性 は間違いないのですが、
しかしオス2匹の逃走劇が、話が進むにつれ衆道の道行 に見えてくるのは何故なのか。 
メイに「秘密の友達だよね」と言われ「そんなこと言われると、おいらドキドキ するでやんす」と顔を赤らめるガブ、
というあざとい演出もさることながら、やはり最大の効果は、メイを演じる成宮寛貴の演技と声質。
インタビュー等を読む と監督は
「メイは男の子だけれど中性的な感じに」「(原作の木村さんと話して )男同士の友情の物語とも捉えられるし、
男女の恋愛ドラマにも捉えられる。そ んなどっちでもないものに作りましょう」
と考えたそうですが、その試みは原作 よりも丸っこくて愛らしいキャラクターデザインに加えて、
声の出演が決まった 時点でほぼ達成されたのでは、と思います。 最近公開された「乱歩地獄」の「鏡地獄」でも思ったけれど、
この人の声という のはただソフトなだけでなく、妙に艶っぽいんですね。
本人の発する過剰なくら いの色気に、かなり声も貢献しているという印象でしたが、加えてメイ役では、
演出もあったのかもしれませんが笑い方、話し方、語尾から何まで、ヘルマプロ ディスト的な色気が満載。
同時に、中村獅童の芸達者ぶりに感心しつつ、見てい る側はメイとのやりとりにいちいち照れるガブの姿を愛らしく感じるようになり 、
かくて仲間を離れ、自分たちの心に従って、2匹で暮らせる「みどりの森」を 求めた彼らの道行きは、
オーバー・ザ・レインボーを求めてひた走るゲイカップ ルの旅路にも見えてくるのです。
(それを後押しするのが、エンドロールに流れ るaikoの主題歌。
♪赤く染まる指先や頬を 生まれ変わっても見ていたい/透き 通る日も濁り曇った日も/あなたに想いを焦がして って、どうよ。)
「これがファミリー映画って?」という声もあるようですが、私はべつに子供が 見ても構わないんじゃないかと思います。
愛にはいろいろな形があり、それによ って差別されることのいわれのなさや、
自分の信念に沿って行動することについ て、見た子たちが知ってくれるなら。
子供向けアニメーションとしては、確かに ちょっとした「怪作」かもしれませんが、逆に、
一緒に見た子供の感想や質問に どう対処できるかで、親もまた映画のなかのガブのように人としての度量を試さ れるのでは、
という気も。 まさかとは思いますが、ダブル・ミーニングな設定にはそういう意図もあるので は?
と考えれば、結構意地の悪い作品かもしれません。が、何はともあれこの正月、
人気俳優の声にて大スクリーンで展開される愛と感動の男の子同士の逃避行 物語、
ということに間違いはないので、ご興味持たれた方はぜひ劇場にどうぞ。



メゾン ド 卑弥呼
「ゲイの老人ホーム」という場所は、まだ現在の日本では実現不可能なものなので、
それを舞台にした本作は、一種のファンタジーでもあり、またセンセーショナルな興味だけで取りあげられることも少なくありません。
が、本作はそんな興味本位の眼差しなどどこ吹く風、伝説のゲイバー「卑弥呼」の経営者ヒミコと、
彼が捨てた娘、そしてヒミコの若い恋人である青年の、微妙なバランスで保たれた関係を中心に
、恋とも友情とも違う信頼関係で結ばれていく人間の姿を描いていく作品です。物語の中心になる三人――
誰をも愛せそうに見えながら、足場のおぼつかないオダギリジョー、いつもふてくされた顔で、
世間や老人たちが見せる矛盾や無理解に「なんで!?なんで!?」と詰め寄っていく柴崎コウ、彼らを見つめながら、
厳粛に末期癌の運命を受け入れるヒミコ、それぞれの佇まいが(北村道子さんの衣装の力もあり)印象的です。
時間の経過とともに、彼らの間に降り積もる「孤独」と「老い」と、「死」の現実。
それを救うのはささやかなユーモア、シュールだけど解放感溢れるダンス・シーン。繰り返し描かれる日常の風景、
とりわけ食事シーンも魅力的で(朝食のパンケーキ、果物、干物、流しそうめん、菜園のパプリカ、おはぎといった食物の、何と美味しそうなこと!)、
人はこうして日常を重ねながら、老い、死んでいくのだなぁ、と自然に思わされたりも。
そうした老人ホームでの日々のなか、ヒロイン・沙織と親しくなった入居者の山崎が、
彼女に言います。

「生まれ変わったら女になるの。好きなお洋服を好きなだけ着れるのって、どんなに幸せかしら。だから、死は怖くないわ」

と。それに対して
「女に生まれたってできない格好もあるよ」
と答える沙織の台詞に、
「男に生まれても女に生まれても生きやすいということはない」という『バナナブレッドのプディング』の名台詞を一瞬、思い出したりも。
これでピンとこられた方もいらっしゃるかもしれませんが、そうです。これは、少女マンガの世界です。
それも、ザッツ・大島弓子ワールド。「孤独」「死」「老い」の、人間にとって避けて通れぬ三点セットを、
一見ファンタジックな美しさにくるんで差し出す表現方法と世界観は、まさに大島作品のもの。
監督の犬童一心氏は、萩尾望都と大島弓子の大ファンで、自分の作風はこの二人の影響下にある、
と公言されている人ですが(今回はとりわけ大島さんの「ノン・レガート」を意識したとか)、きっと彼の心の奥には、
“花咲く乙女たちのキンピラゴボウ畑”がどこまでも広がっているのでしょう。とはいえ、沙織と春彦(オダギリジョー)が、
一度は愛しあうことを試みる場面や、自分を棄てた父親への感情を小骨のように呑みこんでいる沙織が、
感情を爆発させて老人たちを責める場面のミもフタもない台詞などは、監督ならびに脚本家の渡辺あやの個性だと思いますが、
本作はやはり、大島作品からの影響を受けたクリエイターの一人が、自分が受け継いだ精神性を、
目下のところ最良のかたちで映像化できた作品だと思います。
同じく、大島弓子に憧れた人間としては、悔しいような、嬉しいような。とはいえ、やはりここは素直に祝福すべきなのでしょう。
犬童監督には、やはり「つるばらつるばら」の映画化も実現して欲しいなぁ。細野晴臣さんの、映像の邪魔をしない、
穏やかな存在感のある音楽、そして、ドヴォルザークの「母が教え給いし歌」尾崎紀世彦の「また会う日まで」など、
挿入曲の使い方も魅力的です。ゲイ・セクシャルという点については、二元的なテーマになってしまっているので、
物足りなく感じる人もいるかと思いますが(実際、一部の“その道”のオーソリティーである評論家からは、辛口の評も出ています)
逆にいえば、これは、セクュアリティがどうの、ゲイとヘテロの恋愛がどうの、という話ではないのです。
これは、世界の周縁に追いやられてしまった人々、あるいは自らそこで生きることを選んだ人々が、
手さぐりで、どうやって生きるか、または世界と和解を果たせるのかを、模索する映画です。
よって明確な答えが出されるというものでもなく、それゆえ反撥を感じる人もいるかもしれません。
でも、人と人の間には溝があり、壁があり、それを認めたうえで、どうすれば私たちは繋がれるのか、
世界を愛することができるのか、ということを試みる、この映画の誠実なキュートさを楽しんでもらえたら、と思います。
初秋、寒くなるまえに、心をほっこりさせたい方は、ぜひ劇場へ足をお運びください。



僕たちの時間
(1991年米/監督・脚本・撮影:クリストファー・ミュンチ/出演:デイヴィッド・アンガス、イアン・ハート)

ジョン「死後はどう噂されたい?」
ブライアン「信念を貫いた男で、ビートルズを裏切らず、思慮深かったと」
ジョン「裏切らんさ」
ブライアン「そりゃどうも」
ジョン「何でもしてくれそうだ」

ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインがホモセクシュアルで、
ジョン・レノンに恋していたというのは、今やファンの中では有名な話だが、これは1963年3月、
彼らが二人だけでバルセロナに旅行した実話に材をとったフィクション。
当時、この旅行は、ジョンにとって第1子であるジュリアンが生まれた直後だっただけあって、
関係者の間でさまざまな憶測を呼んだらしいが、端整なモノクロの映像で綴られる二人の道行きは、
格別ドラマチックな演出をほどこされるわけではなく、会話や微妙な態度のやりとり、空気感によって繊細に、淡々と描かれる。
成功の可能性を手にし、共にその道を進むという絆で結ばれながら、恋する者と恋される者という立場にもある二人の関係。
ブライアンのさりげない愛情表現と、それに優越感を感じつつも、
彼との友情を保つべく気遣うジョンとの微妙な感情の交流が、抑制された演出によって表現され、見ていて心地良い。
ジョン・レノン役のイアン・ハートは最近では「ハリー・ポッター」で有名だが、
この作品では若き日のジョンを容姿・雰囲気共によく似せて演じていて
(実際に彼はリヴァプール出身で、ミュージシャンとしても活動していた)、この後「バック・ビート」でも、
スチュアート・サトクリフと深い友情で結ばれたジョン・レノンを再び演じている。


リビング・エンド
(1992年米/監督・脚本・撮影・編集:グレッグ・アラキ/出演:マイク・ディトリ、クレイグ・ギルモア)

ヒッチハイク中、連続男性殺しのレズビアン・カップルから拳銃を強奪したルークは、ホモ嫌いの男たちに囲まれるが、
危ういところを映画評論家のジョンに救われる。HIVポジティブと診断され、
絶望していたジョンはやがてルークの逃避行に同行することになるが……。
「失うものは何もない」状況だからこそ、否応なしに燃えあがる二人の恋、
彼らが引きおこす、または彼らをとりまく暴力をアップテンポで描き、行き場のない男たちの愛と哀しみを
叩きつけるような映像の中で、どこまでも変わらないカリフォルニアの乾いた青空が目に染みる。
精神的に荒むジョンを献身的に支える女友達ダーシーとの友情も印象に残る。
監督のグレッグ・アラキは当時、カムアウトしているゲイであり「ニュー・クイア・フィルム」と呼ばれたジャンルを牽引していたが、
その後女性と結婚して話題となった。昨年は幼児虐待をテーマにした新作『ミステリアス・スキン』を発表するなど、気を吐いている。


ヴェガス・イン・スペース
(1991年米/プロデュース・監督:フィリップ・R・フォード/出演:ドリス・フィッシュ、ミスX)

時は23世紀、宇宙航行中のU.S.S.性交渉(インターコース)号の乗組員、ダン・トレイシー船長とクルーたちは極秘指令を受け、
女陰系のクリトリス星へ向かう。男子禁制のこの星で起こった宝石盗難事件を解決すべく、
彼らは速効性の性転換ピルによって20世紀風ショーガールに変身する。
が、グラマラスな女性だけの魅惑のリゾート地ヴェガスで、彼らは果たして無事に任務を遂行できるのか!?
というのを、とことんチープなセット撮影とドラァグクイーンのオネエサマたち
の出演で描いた「SFアクション性転換ミュージカルコメディ」。
正直言って話も撮影ぶりも(衣装とか小道具とか)手作り感たっぷりでお世辞にもゴージャスとは言えないのだけれども、
のびのびと歌って踊る出演者たちの姿を見ていると、あまり細かいことは気にならなくなってきます。
SFとしてテーマがどうとか何とかシチメンドくさいことはこの際抜きにして、
女装する=自分を解放する、事ってこんなに楽しいのよーん、という彼女らの姿に手拍子など送りたい一本。


悶絶!!どんでん返し
(1977年日/監督:神代辰巳/出演:鶴岡修、谷ナオミ、遠藤征慈)

エリート・サラリーマンの北山は、ホステスのあけみの部屋に転がりこみ、
彼女とよろしくやろうとしたところを、乱入したヒモの川崎に犯される。
その後、別の場所でも偶然出会った川崎にふたたび犯された北山は、いつしか味をしめ、女装して北山と一緒に暮らすように。
あけみの部屋で3人の同居生活を続けるが、北山は警察に追われる身となり……。
どちらかというとポッチャリ体型の鶴岡修が熱演する北山の女装姿は、似合っているのかいないのかは微妙だが、
男同士の絡みも逃げずに結構ねちっこく描いてあるのは、日活ロマンポルノとしては特筆ものかも。
決まって一人が疎外される形になるいびつな三角関係、ヒモに初めて犯された北山がトイレで号泣するのに、
あけみがドアの外から「早く出てよォ」と急かす逆転劇など、そこそこに残酷な笑いが忍ばせてあり、
最後に立派なオカマになる道を選んだ北山が前向きに生きていく姿も悪くない。


M・バタフライ
(1993年米/監督:デヴィッド・クローネンバーグ/出演:ジェレミー・アイアンズ、ジョン・ローン)

1983年に発覚した実際のスパイ事件をもとに創作され、トニー賞に輝いた舞台劇の映画化。
1964年北京、フランスの外交官ルネ・ガリマールは、プッチーニの「蝶々夫人」を演じる歌姫ソン・リリンに出会い、
彼女をバタフライと重ねるように恋に落ちる。密かに逢瀬を重ねる二人だが、
行為は常に暗闇の中で行われ、ソンはガリマールに自分の体に触れさせようとはしない。
だが、恋に溺れたガリマールにはそれすらも東洋女性の慎みぶかさと映り、家庭や地位も捨て去って、彼女との関係にのめりこんでいく。
だが、運命の朝、スパイ容疑で逮捕された彼を待っていたのは、愛するソンが実は“男性”だったという、残酷な真実だった。
本作に関しては、ソン・リリンに扮するジョン・ローンがどう見ても女に見えないとか、
従って彼にのめりこむガリマールの気持ちがわからないとかいう批判がとびかったが、何にしろそこはクローネンバーグ、
男がその目に映る現実をねじ曲げてでも、自らが追い求める「東洋の幻想」に溺れていくさまを、グロテスクなまでに執拗に描く、
その偏執狂的な描写を楽しめばいい(楽しめれば)のであって、
その意味では、ジョン・ローンが完璧な女に見えてはかえって興ざめなのである。
ただ、
ラスト近く、正体が明らかになった後、二人きりで対峙したとき、ガリマールに決定的につきはなされたソンの後ろ姿に、
最も“女性”を感じる瞬間が、本作の一番倒錯的な場面かもしれない。


華麗なる変身
(1969年米/監督:アーヴィング・ラパー/出演:ジョン・ハンセン、クィン・レドカニー)

1952年「ニューヨークのGIが女性になった」と国際的に報道され、
時の人となったアメリカ初の性転換者、ジョージ(クリスティーヌ)・ジョーゲンセンの半生を描いた作品。
本人の自叙伝を原作にしているだけに(原題は“THE Christine JORGENSEN STORY”)、内容は奇をてらわず、語り口はいたってシリアス。
「アメリカ交響楽」等の作品で知られるアーヴィング・ラパー監督が、手堅い演出で見せる。
物心ついた頃から女性的な性格を意識して育ったジョージは、長ずるにつれ自分の精神は完全に女性だと自覚していくのだが、
その過程でGI時代の同僚達からのイジメ(シャワー室で執拗に絡まれるなど)を受けたり、
就職した広告代理店の男性上司に襲われたりというエピソードが盛り込まれている。
後半、完全に性転換して女性となり、クリスティーンと名乗るようになってからも、
ジョージ時代と同じジョン・ハンセンという若手俳優が演じているのだが、モチ肌で優しげな顔立ちながら、
やっぱり男性にしか見えないので(本人は頑張っていらっしゃるのでしょうが、肉体的特徴はいかんとも……)唯一取材に応じ、
次第に心を通わせていくジャーナリスト(クィン・レドカニー)とのシーンも、男女のラブシーンというよりは、
やっぱり男同士のそれに見えてしまったりするのだけれど、いいお話です。
この時代にしては、性差や性転換をめぐる真面目な描写に、好感の持てる一本。


クライング・ゲーム
(1992年英/脚本・監督:ニール・ジョーダン/出演:スティーヴン・レイ、ジェイ・ダヴィッドソン)

IRA(アイルランド解放戦線)の兵士ファーガスは、人質にとった米軍兵士ジョディから、もし自分が死んだらそれを恋人に伝えてくれと頼まれる。
やがてIRAの隠れ家は襲撃され、逃げようとしたジョディはあやまって自国の軍隊の車に撥ねられて死ぬ。
からくも生き残ったファーガスは、過去を捨ててロンドンへ向かい、約束を果たすべくジョディの恋人ディルに会う。
彼女の美しさに惹かれるファーガスだったが、彼の元には、かつての仲間たちの追手が届いていた……。

《以下、ネタバレになるので、未見の方はお読みにならないでください》
前半の、米兵ジョディとIRAの闘士であるファーガスとのつかのまの友情の描写も
心に残るが、何といっても素晴らしいのは後半の展開。愛したディルが実は男だ
った、とわかって、一時拒否した心を撤回して、ファーガスは命を賭けてディル
を守ろうとする。リアルな政治的背景を持ちながら、その混沌と暴力によって、
性別という縛りを超えた真実の愛が際立つ美しい作品。寒々しくすらあるのに、
ネオンの滲みが夢幻的な美しさをかもしだすロンドンの街の映像、同名の主題歌
を歌うボーイ・ジョージの歌声もいい。
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