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shinobu様ご推薦 3 

『TABOO』(2003年英/監督:クリストファー・レンショウ、出演:ボーイ・ジョージ、ユアン・モートン、ポール・ベイカー)
ニューロマンティック、という言葉を聞いて胸ときめくと言うと年がバレるけれ
ど、これはそのムーブメントの渦中において台風の目だったボーイ・ジョージ自身が、狂騒の80'Sを描いた作品だ。
ロンドン、ブロードウェイで上演されたボーイ・ジョージ作のオリジナルスコアによるミュージカルの舞台「TABOO」を、まるごと(幕間の出演者による客
いじりまで含めて)撮ったのが本作。舞台の空気をまるごとパッケージした映像は、観客による手拍子や歓声も生々しく、ダイレクトな興奮をスクリーン上に再
現する。ストーリーは、ボーイ・ジョージの半生に、伝説のクラブ「MUDD CLUB」に集う若者たちの姿をからめた一種の青春群像劇だが、スキャンダラスな意味
も含めて注目が集まるのはやはりボーイ・ジョージの成功と破綻を綴るパートだろう。

ニューロマンティックの波に乗り、ボーイ・ジョージが加入したバンド、カルチャー・クラブは次々にヒットを飛ばして一躍スターダムに。
けれど成功とは裏腹にジョージは荒れていく。音楽よりも私生活のゴシップばかり注目される日々に倦み、
恋人のつもりでいる駆け出しのカメラマン、ビリーは自身のセクシュアリティに揺れ動き、女性の恋人キムのところへ戻ろうとする。
うまくいかない現実への苛立ちとともにドラッグに溺れていくノノ。
演じるユアン・モートンが、メイクのおかげもあるとはいえ本当に当時のボーイ・ジョージにそっくりなので、
デジャ・ヴも感じられるかもしれないが、この物語はやはりファンタジーだ。どういうファンタジーかというと、
強者の論理に支配された世界に、弱者が勝利するというファンタジー。
この物語で最後にハッピー・エンドの岸辺へ辿りつけるのは、女性たちと、世間でオカマ呼ばわりされる男の子たちだ。
既成概念に縛られる大人の男たちは排除され、彼らから自立した女性たちと、自分の心が形作るままに着飾り、
メイクして街を歩いた少年たちが幸福と調和を手に入れる。男か女かということよりも、まずは一個の人間として生きなさい。
その魂の求めるところ、正直に。
そんな思いを華やかなメイクやドレスアップでコーティングし、一瞬ではあるが世界に空けた風穴となったのがニューロマンティックだった。
ちろん、それは商業主義と結びつき、すぐに食い散らかされて見る間に失われていったのだけれど、
ボーイ・ジョージという当事者の目で描かれた本作は、いくばくかの苦みと感傷をこめて、今や追憶のものとなった80'Sのパーティーを舞台上に描きだす。
劇中で歌われる「君は完璧さ」「カーマは気まぐれ」といったカルチャー・クラブのヒット・ナンバーも懐かしく、スティーブ・ストレンジやマリリンといった
実在の登場人物のそっくりさん(?)ぶりが楽しい。こういう作品を見ていると、ダンス・ミュージックとはその底に一抹の哀しみをたたえた音楽なのだという
ことがよく分かる。ミラーボールが回るほど、ダンス・フロアが賑やかに埋めつくされていればいるほどに「この祭りはいつか終わる」という哀しみが、
溢れるビートに、花火のカケラのように散りばめられているのだと。


『青い棘』(2004年ドイツ/監督・脚本:アトム・フォン・ボリエス、出演:ダニエル・ブリュール、アウグスト・ディール)
1927年にドイツで実際に起こった「シュテークリッツ校の悲劇」事件を映画化した作品。
同じギムナジウムの最上級生であるふたりの青年、パウルとギュンターは約束を交わしていた。
それは「歓喜に満ちた偉大な瞬間」と「大いなる愛」を求めること、そして「愛を感じなくなった瞬間」にこの世を去ること、というものだった。
この取り決めのもと、性急に生きる意味を見いだそうとした二人と、ギュンターの妹ヒルデ、ヒルデの恋人で、
ギュンターの恋人でもある見習シェフのハンスによって織り成される四角関係が物語の主軸。
成熟に向かうよりも、青春の一瞬をとどめて死に向かうことを選んだギュンターの虚無、それを目撃しながら止められなかったパウル、
刹那の恋というよりもさらに空虚な思いで男たちの間を彷徨っているようなヒルデの姿などが、
タイトルどおり、棘のような余韻を残す。

ギュンターとハンスのラブシーンなども短いながら印象的だが、
彼らが過ごす湖畔の別荘の風景や流行の音楽、ダンス、アブサンの酔いなど「黄金の20年代」と呼ばれた、
ワイマール時代の熱に浮かされたような空気が画面の隅々に感じられ、それこそが本作のもうひとつの主役になっている。
因みに監督のボリエスは日本のコミックのファンで、日本人記者にインタビューされたときは、
『トーマの心臓』の単行本をもらって嬉々として帰っていったそうです。余談ながら。

『太陽の墓場』(1960年日本/監督:大島渚、出演:炎加世子、佐々木功、津川雅彦)
大阪・釜ヶ崎を舞台に、日雇い労働者、手配師、愚連隊など、さまざまな人間模様と、暴動に到るエネルギーの暴発を描いた作品。
物語の中心になるのは、ヤミ売血などで稼ぐヒロインの花子(炎加世子)だが、
注目したいのは愚連隊・信栄会の会長である津川雅彦と、彼のところに転がりこむ流れ者の佐々木功の関係。
ヤクザになりきれず苦悩する、まだどこか少年らしさを残した佐々木功と、彼を見守り、何かにつけ庇う津川雅彦の姿には、
ある意味『戦メリ』以上に強い衆道めいた匂いが漂う。
相手の内に、自分の失った何か(おそらくはイノセンスとでも呼ぶべきもの)を見いだし、
守ろうとする若き日の津川雅彦の、憂いのある眼差しが色っぽく、太陽の照りつける街の中、
誰もの肌に浮かぶ汗までが熱っぽく息苦しさを感じさせる本作のなかでは、そのクールさと併せてひどく印象に残る。



「五線譜のラブレター」 (2004年米・英/監督:アーウィン・ウィンクラー/出演:ケヴィン・クライン 、アシュレイ・ジャッド) 
アメリカのショウビズ界にその名を燦然と輝かす作曲家コール・ポーターの伝記 映画。
といっても、第三者が描くポーター像ではなく、死を目前にしたポーター (ケヴィン・クライン)が、
自身の生涯を自らの曲で綴ったミュージカルを製作 し、その舞台を本人が眺めるという形で物語が進行していくのがミソ。 
年老いたポーターがそれらの楽曲に対し、作った意図や当時の心情を語る場面も さることながら、
実はホモセクシュアルだったというポーターの性向が、逃げず にはっきりと描かれているのが、この映画の勇気あるところだろう。 
物語の核になるのはあくまでもポーターと、彼の性向を承知のうえで結婚した妻 (アシュレイ・ジャッド)との夫婦の絆だけれども、
家庭を持ちながらも美青年 たちとのアヴァンチュールが止められないポーターの姿を、
この手の映画にして はかなり赤裸々に描いている。 それを知って、ときに嫉妬に身を焦がしながらも、
彼の才能をより活かすため、 彼の支えであろうとする妻の姿と、彼女を失ったあとのポーターの憔悴ぶりに見る夫婦愛は確かに感動的だけれども、
ちょっと美談すぎるんじゃないの、という 印象があるかもしれない。が、ここで効いてくるのが、
この物語自体が「ポータ ー自身の作ったミュージカル」であるという設定。 
老いたポーターの記憶を反映された物語は、二人のエピソードがあくまで美しく あることを許す。
なぜなら、それは死に瀕した男が、人生の灰汁をすべて濾過し たうえで描く人生の姿であり、妻への愛と、
自分たちの愛は本当はこうあるべきだった、という理想が投影されているに違いないと、観客に思わせるからだ。
出演者の歌や踊りも意外に(?)達者だし、ハリウッド等当時の米ショウビズ界 の華やかな人間関係や、
カルティエによる豪華なアクセサリーといった小道具、 衣装などもゴージャスで楽しめる。  



「永遠のマリア・カラス」 (2002年伊・英・仏・ルーマニア・スペイン/監督:フランコ・ゼフィレッリ/ 出演:ファニー・アルダン、ジェレミー・アイアンズ)
伝説の名オペラ歌手、マリア・カラスの晩年を、
監督自身がモデルと思われる音楽プロモーターとの交流を通じて描いた、という設定のフィクション。 
海運王オナシスとの恋に破れ、かつての美声も失って、パリの豪邸に引きこもる カラス(ファニー・アルダン)のもとを、
かつて仕事を共にしたプロモーターの ラリー(ジェレミー・アイアンズ)が訪れる。
今はロック・バンドの仕事で成功 している彼だが、再びカラスを表舞台に復帰させるための企画を持っていた。
そ れはカラスの舞台の映像化。録音された往年の歌声に合わせて現在の彼女が演技 する、というプランだった。 
当初乗り気でなかったカラスも、ラリーの説得で新しい仕事に乗り出す。スペイ ンの有名監督を迎え「カルメン」の撮影は順調に進み、
それにつれてカラスも生 きる喜びをふたたび得ていくように見えたが……。 

物語の主軸はあくまでカラスだが、並行して、ラリーと恋人の青年マイケル(熱 烈なカラス・ファン)の関係が描かれる。
パリの空港で出会ったマイケルにひと 目惚れし、甘い関係が続いていくかと思われたが、常に仕事へ神経を傾けるラリ ーは、
個展のためテルアビブへ行くなどの相手の言葉にはうわの空、コミュニケ ーションが取れずに、結局、彼に一方的に去られることになる。
そんな彼の有り様と、カラスの「多くの犠牲を払って、仕事に人生を捧げた」姿 が二重写しになるのだが、
実際にマリア・カラスと親交があったというゼフィレ ッリ監督は、彼女の存在そのものと、
その人生への敬慕をこめて本作を作っており、“老い”を迎えた二人の男女を主人公にしながら、みじんも後ろ向きなとこ ろがなく、
むしろ爽やかな生命力が全編に感じられる内容になっている。 カラスを演じるのはフランス女優のファニー・アルダンだが、
立ち居振舞いなどを本人に似せているばかりでなく、
第一線を退いてなお華のあるカラスの存在感 、プライド、プロ意識に裏打ちされた我儘さ、紙一重の繊細さなどを魅力的に演 じている。
衣装はシャネルで、あでやかさもさることながら、ごく自然に身にな じんだ着こなしを見るにつけ、つくづくコムスメに手の出せるものではない、
と 思い知らされる。 ゼフィレッリ作品には華やかさや軽快さはあっても、
イタリア映画にありがちな “臭み”がないので、テンポの良い展開、
オペラ演出家としても知られるだけに迫力の劇中劇「カルメン」など、カラス本人を知らなくても十分に楽しめる。  



「模倣犯」 (2002年日/監督:森田芳光/原作:宮部みゆき/出演:中居正広、津田寛治、 山崎努)
公開当時、ひと足早く試写を観た男友達の感想第一声は「模倣犯やなくてモーホ ー犯やがな」だった。
その男性曰く、ピースと浩美の距離感に怪しいムードが漂う、ということなので 、その部分に注目して観てみた。
森田芳光監督による脚本・演出は、ピースのセ リフにもあるように観念的で、
宮部みゆきの原作小説の森田流解釈をジグソーパ ズルにしたような内容は、
はっきり言ってピースの犯罪同様破綻しているといっていいのだけれど、
それでもこの二人の関係に絞って眺めると、確かになかなか面白い。
時折差し挟まれる10代の頃の二人の回想シーンにしろ、二人が犯罪に手を染めていく過程にしろ、
他のエピソードと同様多くは語られないのだが、エリートで自意識が高いはずの浩美がピースに依存している状態や、
二人が肩を並べて話すシ ーンで画面に漂う濃密な親密さは、確かに深読みできる要素がある。
加えて、浩美の親友を自認する和明(藤井隆)の、彼にイジメから救ってもらっていた少年 時代の記憶と、
刷りこまれた崇拝の感情が絡むと、眺めようによってはこの三人 による三角関係の図にも見えてくる。 
とはいえ、それも全体に破片のように散りばめられた要素のひとつにしか過ぎな いのだけれど。
しかし、犯罪と世論を牽引していくピースの姿には確かに「ポッ プ・スター」的な存在感があり、
これはひとえに演じる中居正広のSMAPリー ダーとして培われた牽引力、によるものだろう。
普段、TV番組のバラエティな どでは隠されがちな彼の容姿の端整さを楽しめるという点でも、
これは一種の「 スター映画」といえるかもしれない。


「孔雀〈KUJAKU〉」 (1998年日/監督・原作・脚本・撮影監督:クリストファー・ドイル/出演:浅 野忠信、ケビン・シャーロック) 
舞台は香港。日本から流れてきた男アサノ(浅野忠信)は、
“ダイブ・バー”と いうゲイ・バーの「孔雀の羽の匂いがする」青いソファが気に入り、そこに居つ いてしまう。
オーナーの英国人ケビン(ケビン・シャーロック)は飲んだくれで 、アサノが住みついたことを気にもせず、
酒を飲んでは道に迷い、彼の面倒を見ている中国娘のスージー(シュー・メイチン)に迎えにきてもらうことを繰りかえしているが、
そうした日々のなか、彼らは互いに愛情を抱いていく。 
監督のクリストファー・ドイルはこれが初監督作品、しかも本来はカメラマンと あって、縦横無尽のアングルで切り取られる映像は、
どのシーンも色彩豊かで美しい。だが、先に映像ありきな感は否めず、ストーリーはどちらかというと「あって無きがもの」となっている。
描かれるのは3人の日常や過去の風景、独白から成る心情的なものが中心で、
映 画の終わりと始まりにこれという変化はない。だが、異邦人たちがそれぞれの漂白のうちに寄り添い、
なお各自の人生を自由に呼吸しているさまは、孔雀のソファーのような居心地の良さを全編に漂わせる。
そのムードにどれだけ肌が合うか が、本作の好き嫌いの分かれ目だろう。 
“ダイブ・バー”に集まって踊る若者たちやドラァグクイーンの姿も描かれるが 、
ケビンがアサノに寄せる愛情も本作の重要な要素のひとつ。殊に終盤、
彼がカメラに向かってアサノへの想いを語るシーンは、とりわけ印象的だ。

プロデューサーズ
(2005年米/監督:スーザン・ストローマン/出演:ネイサン・レイン、マシュー・ブロデリック)

舞台はNY、ブロードウェイ。
ショウが酷評され打ち切りとなり、落ち目を囁かれるプロデューサーのマックスの元に、会計士レオが帳簿のチェックに現われる。
赤字だらけの帳簿を見たレオは、しかし、そこから意外なアイデアを得た。
ヒットした舞台より、コケた舞台のほうが実質的には儲かっているのだ。
出資者から資金を集めるだけ集め、一晩で大コケする舞台を作れば、出資者に配当金を支払わずに済む。
つまり、集まった多額の金はそっくりプロデューサーの懐に入る、という計算だ。
かくて、プロデューサーになるのが夢だったレオとひと儲けしたいマックスの利害は一致、
二人は手に手を取って、最低の脚本に最低の演出家、最低の出演者を選んで、
酷評上等の舞台「春の日のヒトラー」をデッチ上げる。しかし、思いもがけず舞台は大ヒット、
皮算用とは逆の方向に廻りはじめた歯車に、慌てふためく二人だが……。

という大まかなストーリー自体には、別に男同士の絡みがあるわけではないけれど、そこはブロードウェイ、
登場する脇役がゲイ、ゲイ、ゲイばっかり。
演出家がゲイなら美術監督もゲイ、衣装担当もゲイ、メイク担当もゲイ、裏方で力を発揮するのは、誰もがみんなゲイばかり。
そして遂には「舞台をヒットさせるには、ゲイな感じを入れるのが肝心」と、歌って踊って主張する。
そう言われれば、キンキラキンの華やかな街の様子から、
女性ダンサーたちの着る光り物ピカピカの衣装まで、すべてキャンプな感じに見えてくるから不思議、
というか、彼らがブロードウェイの夜を支えているんだよ、と明らかにした点で、
これはブロードウェイのカミングアウトといってもいいのかもしれない。
原作はメル・ブルックスによる同名映画で、本作はそれをミュージカル化しトニー賞12部門を受賞した舞台の映画化だけれども、
製作・脚本・作詞作曲をメル・ブルックス自身が担当しているおかげで、
ギャグはどこまでもお下劣(下ネタが多い)なのに、綺麗ごとを押しのける登場人物たちのパワフルな姿と、
ひとひねりした台詞回し、ストーリー展開のテンポの良さ(もちろん音楽もそれにひと役買っている)で、
あら不思議、ネタのどぎつさが、いつの間にか楽しめる洒落たコメディになってしまう演出&構成の妙が上手い。
監督がブロードウェイでの演出を担当したと同じ人なので、
舞台の熱気とゴージャスさをそのままパッケージして映画館にかけてしまったようなライブ感、
黄金期のMGMミュージカルを意識したような演出も楽しい。主演の二人をはじめ、
脇役一人一人までしっかり魅せる芸達者ぶりが楽しめる、極上のエンターテインメント作品。
エンドロールの歌と、さらにその後のカーテンコールにもお楽しみは待っているので、
急いで席を立たれる事のないようにご注意を!


極道恐怖大劇場 牛頭(GOZU)
(2002年日/監督:三池崇史/出演:曽根英樹、哀川翔、吉野きみ佳)

ヤクザホラー、というふれこみに腰の引ける人もいるかもしれないが、ちょっと待った。これは見逃すと損をする、
究極の純愛ホモ映画なのである。
字廻組(あざまわりぐみ)の下っ端ヤクザ、南(曽根英樹)は、兄貴分の尾崎(哀川翔)を心から慕っている。
が、最近の尾崎は様子がおかしい。店の前にいたチワワ犬を
「あれはヤクザを監視するヤクザ犬です」と組員たちの前で振り回して殺し、後続車もヤクザカーだと必要以上に警戒する。
そんな南の様子に業を煮やした組長(石橋蓮司)は、南に尾崎を、名古屋にある“ヤクザ処分場”に連れていくことを命じ、
南は尾崎とともに旅立つ。が、旅の途中で、尾崎の姿が消えてしまい……。

三池監督とは『殺し屋1』に続きタッグを組んだ佐藤佐吉の、頭の中の妄想をポコンと取り出したような脚本を、
さらに大胆に解釈した三池演出は、ホラーらしい不気味さをも醸しだしながら、自由奔放、パワー全開。
行方不明になった尾崎が、結局自らヤクザ処理場へ出向いて死んだと知って、
肩を落として車に戻った南を待っていたのは、妖艶な美女(吉野きみ佳)。戸惑う南に、女は「私があなたの兄貴です」と告げ、
字廻組までついて来るのだが……。たとえば、男である自分が熱烈な友情なり尊敬などを抱いている相手が、
やはり男性であれば、その思いは肉体的なものを伴って自覚はされないかもしれない。
けれど、突然、その相手が女になったら? という大胆な、一歩間違えればバカ話になることを、
この映画は堂々とやってのけているのだ。
それは、あなたが感じているその“感情”は、はたして単なる友情なのか? 綺麗ごとでごまかしてはいないか? 
自分を枷にはめてはいないか? という、セクシュアリティやジェンダーの概念を根底から、
バカバカしさを恐れずに揺さぶっている力技にとにかく感心。実際、カンヌ映画祭の監督週間で上映されたときには、
女性客の評判がよく、渡仏したスタッフは「新しい愛の形だ」と興奮する彼女らに取り囲まれたという。
監督の三池崇史は以前からインタビュー等で

「男は男が好きなもんなんですよ」
「肉体関係があるかどうかがホモかどうかを分ける基準じゃないということは確
かですよね。それほど単純じゃないと思う。部活で崇拝する先輩がいたりとか、
空手の先生だったり、何かがあるはずで、そういう気持ちっていうのは肉体的に
交わることと変わらないことなんですよ」


と語っているが、こうした三池映画の
ある種クイアな部分にはっきり光を当てないと、そのフィルモグラフィーの全貌
というのは見えてこないのではないか、という気がする。
そこに光を当ててみたい、あるいは、そうした原稿を読んでみたいと思われる方
は、下記メールアドレスまでご連絡を。侠気(おとこぎ)や露悪趣味だけが三池
崇史の世界ではないのだ!

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