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衆道 稚児関係史跡  伝説の 地

江ノ島 稚児ケ淵 (鎌倉物語 新編鎌倉志)
建長寺広徳庵の和尚、自休に懸想された鶴岡相承院の稚児白菊が、断崖から身を投げ、自休もその後を追ったという伝説が残されている。

新潟 糸魚川市 西海村平手 稚児池
池の主の竜に稚児舞を献じたが、あるとき美しい稚児を引き込んだと言われる。

新潟 糸魚川市 西海村水保 稚児淵
観音堂で舞を舞う稚児が身を浄めた。


新潟 糸魚川
 稚児岩
稚児が下敷きになって死んだという口碑がある。

伊賀国名賀郡神戸村字上神戸の戸世山蓮明寺 稚児塚
(永閑伊賀名所記 三国地志 巻七十五所引)
他寺の僧と心を交わし二人で逃げようとしたところ
寺の僧に誤って射られた稚児が葬られた。
又、稚児梅丸が近辺に住む男に懸想され、思案した稚児は上人を討てば契ることが出来ると約し、上人の衣を着て身代わりとなり、男に討たれた。 嘆いた上人が立てた卒塔婆から枝葉が生じ、生卒塔婆と名付けたという話も。

伊勢国宇治山田市間の山の街道より右側 地蔵堂「いつきのしるしの松」
(伊勢道中日記)
斎(いつき)と言う歌舞伎子が知音の男を持っていたが病死、
嘆いた男が塚のしるしに植えた松。

陸前国栗原郡紅袴村 舞童塚 
(奥羽観蹟聞老志 巻八 栗原郡の条)
眉目秀麗の舞童春風が他に妬まれ殺されて埋められた。春風が紅色の裳を好んだため
村の名となった。

陸中国平泉中尊寺南大門の南 稚児が墓 (平泉旧跡志)
同舎山系の際乗合いの争論から稚児が討たれ葬られた。
その下の流れを稚子が沢という。

福井 佐分利村鹿野 稚児岩
騒動の犠牲になった稚児が舞を舞いながら死んだ姿といわれる。

福島 伊達郡霊山 稚児岩
稚児が切腹した場所と言われる。

京都 宇治 稚児岩
夜な夜な稚児に化けると言い伝えられている。

山城 広沢池 稚児岩
僧都に別れた稚児が身を投げた場所
付近に稚児の祠もある。


大阪府八尾市本町5-8-1常光寺 八尾地蔵
八尾の里の男が死に、常光寺の地蔵から預かった手紙を閻魔に渡すと、
閻魔が、かつて美僧だった地蔵と深い仲だったことを語り出し…
昔のよしみから地蔵の頼みを聞き入れ男を極楽に送るしかなかったという話。



播磨 飾西郡蒲田村(飾麻郡八幡村)の下 稚児が淵 (播磨鑑 飾西郡の部)
古之蒲田寺の僧伝密と稚児白藤が入水した。珍しい僧と稚児の情死。


美作国久米郡全間山の岩間山本願寺の南十二町を隔てて 稚児石 (新訂作陽誌)
備前国二石寺の僧に懸想され、書を交わし、会わんとした稚児が、僧を待つ内に凍死し、
埋められた地。
同郡福岡村字小桁村 稚児瀬 稚児石 (新訂作陽誌) 
極楽寺の稚児がこの石から、この瀬に向かって投身した。

筑前国鞍手郡木屋瀬町字金剛 稚児塚 稚児地蔵
(筑前国続風土記 巻十三 筑前伝説集)
延命山金剛寺を襲った強盗が逃げる稚児達を追い討ちした、その屍が埋められた稚児塚。
塚がある地を稚児が原という。
重病を煩った子のため父親がこの塚に祈ると平癒したため地蔵を安置した。

宮崎 稚児ケ池

熊本 小川町河江 
稚児が人柱に立てられた。

鹿児島 稚児の松 
鹿児島 稚児の滝

 

鹿児島県曽於市財部 醫師神社(門倉薬師

『賤のおだまき』と同内容の琵琶歌『桜形見』中、平田三五郎が吉田清家と共に出陣前に参り
清家が三五郎を抱き上げて天井板に落書き(辞世の句)したという神社

壁には他の兵士達の書き置きもあり、後に多くの人がその書き置きを見に訪れていたが
瑞慶寺の住職が黒く塗りつぶしてしまったらしい。

残念ながら元の建物は消失したとか。

「書き置くも形見ともなる筆の跡、我はいずくの土となるらん」(三五郎)
「命あらば 又も来て見ん門倉の 薬師の堂の軒の下露」(清家)




鹿児島県曽於市財部町北俣
平田三五郎の墓 (三五郎塚)

三五郎は無双の美少年、吉田清家と義兄弟の契りを結び、慶長四年庄内の乱において
先に討死した兄に殉じた。享年十五歳。三五郎と清家の物語は琵琶歌にもなり、
三五郎がいかに美しく、二人がラブラブだったか(同衾してたことまで)描写される。
合戦の最中、三五郎は五、六人の敵兵にモブレされそうになったり…。
そんな時清家が胸を撃ち抜かれ戦死、その後を追って三五郎が壮絶な死を遂げるまでが
歌われる。

この『形見桜』の歌が、琵琶会の名目でもたれた薩長同盟の会合において弾唱され、
桂さんが感動、二人の義兄弟の契りに薩長を重ね、この盟約が成った。と書かれた本も
あるが、ドラマなどでこの場面に琵琶が出てくるのを見たことはない。

十三歳の少年二人(一人は後の陸軍中将)が往復四日もかけて墓参りに来たという
逸話もあり。 

平成二十七年 曽於市指定文化財(史跡)


『賤のおだまき』現代語訳(平凡社ライブラリー)の解説によると
清家の墓も少し離れたところにあったとされるが現在は不明とのこと


平田三五郎の肖像掛軸
鹿児島県曽於市 財部郷土館に展示

絵師は国分郷向花村出身の幕末、明治の日本画家
服部英龍(本名・有馬貞英) と、現代語訳『賤のおだまき』解説の筆者により
判明したそう!
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