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shinobu様ご推薦 鳩山郁子 大島弓子

【鳩山郁子】


『カストラチュラ』鳩山郁子(青林工藝舎)
寄宿生の学校で学ぶ少年・茅(マオ)は、複雑な友情を抱く同級生の舒力(シューリー)に誘われ、彼の伯母の家を訪れる。
生身のものではない擬制肉を使った 食品しか口にしたことのない、新興勢世代の人間である茅は、
旧王朝の食卓のごとく、甲殻類をむさぼり食うその家の食事風景に圧倒される。
吐き気すらもよおしたその帰り道、劇場で見た王朝時代の去勢歌手(カストラート)夏落蒂林(シャーロット・リン)に激しく惹きつけられた彼は、
楽屋に忍びこんで夏落蒂林本 人に会う。夏落蒂林は茅に語った。
纏足を施され、美しい声を維持するために去 勢され、皇帝の愛玩物として生きた長い夜の物語を……。 
「不変の宇宙卵」として時空に漂うカストラート、夏落蒂林の存在を軸に、寄宿 舎という閉鎖空間で暮らす少年たちの欲望、
心の綾を織り交ぜながら語られる物 語は、暗喩に満ちている。
それゆえに語り口は複雑だが、何度も読み直したくな る魅力と色気があるのも確か。
絵の透明感がオブラートになってはいるが、「食 べる」(特に肉)こと、暴力、支配と被支配、
フェティシズムなど、紡がれるエピソードはかなりデカダンチックで危険だ。約230ページの異世界に存分に溺れる べし。 


「滴翠珠」(青林工藝舎『シューメイカー』収録) 
副題に「カストラチュラ番外話・墨抗(モーハン)労働改造班篇」とあるように 、
王朝崩壊後、民国軍により墨抗の採掘施設(実際には強制労働収容所)に入れられた夏落蒂林と、
彼の名誉回復活動にたずさわる新興党青年団の司燿挺(スー ヤオテイン)、その部下である少年・旭(シウ)をめぐる物語を綴る連作。 
物語の中心が生身の夏落蒂林となったことで、纏足にまつわるエロティックな要素が増し、
これまでの作品に比べても肉感的なエロティシズムがあるが、生臭さ とおよそ無縁なのは、
絵の個性と淡々とした語り口、加えてボルゾイの白を思わ せる雪の季節が舞台となっているせいか。
細かなエピソードと、同時収録の同じ く「カストラチュラ」番外編であるタイトル作、「パサージュ」「薔薇色の本」 との連なりぶりもお見事。
表題作「シューメイカー」では、ユーモアのセンスもいっそう研ぎ澄まされ、
より読み易くなっているのもポイントだ。「カストラチュラ」の世界に耽溺した人は文句なく楽しめ、
そうでない人にも逆にこちらから「カストラチュラ」世界の 門を叩いてみたくなるのでは、と思わせられる。

【大島弓子】


「男性失格」大島弓子(朝日ソノラマ刊/大島弓子選集第1巻『誕生』収録)
原題(作者自身が考えていたタイトル)は「シモンとシモーヌ」。
そのタイトル通り、男性から女性へ変貌した男が、かつての親友と向き合ってどうなるか、という物語。

ヨット遊びの最中、核実験に巻き込まれて死んだとされたシモンは、奇跡的に一命をとりとめて、親友アーヴィーの前に姿を現すが、
喜びもつかのま、シモンの肉体はしだいに女性化していく。アーヴィーは女性化した彼にシモーヌを名乗らせ、
妹として友人たちに紹介するが、すでにシモーヌのアーヴィーを見る目は、親友へのものではなくなっていた。
不条理な(登場人物にとっては)理由によって、性の転換を余儀なくされた人物を中心に、
周囲の人物が自身の運命の転換と愛の有り方を試されるという展開は、さらに洗練されて、
後年の「ジョカへ」(同選集第3巻収録)につながっていくが、「ジョカへ」が女性に変貌した少年が、
女としてかつての幼なじみの少女と向き合う話だったのに対し、こちらは男性と向き合う話。
なので、はっきり同性愛の話とは言えないけれど、主人公が男性の意識を残しつつアーヴィーに惹かれていく過程が描かれており、
裏返せば「男の熱い友情というのはすべからく同性愛感情である」とも解釈できるのでは。
とはいえ「ジョカへ」も名作なので、興味を持たれた方はぜひこちらもご一読を



「ハイネよんで」大島弓子(朝日ソノラマ刊/サンコミックスストロベリーシリーズ『草冠の姫』収録)
「原始林のほろびゆく動物たちの生態を/ことこまかに記述し発表するため」
Y県の山中にとじこもっていた形代一郎と妻の添子は、冬も近付いたある日、森の中にたおれていた少年を発見する。
少年はどうやら野生のシカに育てられたらしく、人間の言葉を話すこともできず、人間らしい日常の行動をとることもできなかった。
二人は、少年をジロウと名付け、完全に冬になり山を降りてからも、息子か弟として育てられるようにと、人間らしい生活を営むための教育をほどこす。
しだいに人間らしさを発揮してゆくジロウは「理性であればだれだって魅せられてしまう」美しい瞳の持ち主だった。
彼の一郎を慕う態度と、一郎の変化に、二人の間に恋情が生まれていることを気付いた添子は、二人を残して山の家を出る。
「あなたが東京に/お帰りになって/あの子を知人たちに/紹介する時の言葉によって/わたくしは あなたのもとへ/もどるも/もどらないも/決めるでしょう」
という置手紙を残して。しかしその直後、ジロウの存在は近隣の村人に発見され……。
大島弓子というと、よく「詩情」という言葉で括られることが多く、それを全肯定はしないけれども、全否定もしない。
彼女の台詞には言霊が宿っている、と思えるほど、選びぬかれた言葉を綴りあわせたネームは魅惑的で、透明感を伴い美しく、
たとえそこに差し出されているテーマはいかにリアルでシビアなものであろうと、その苦みをもすんなりと読者に含ませてしまう。
かつて「國文学」誌上で松田修氏が大島作品をとりあげ「少女漫画は詩歌をも復権させるだろう」と言ったのもむべなるかな、である。
この作品も、そこここで響くモノローグが美しく、テンポ良く、読者の心に響く。心が渇いたときには美しいものを見るといい、というのは常套手段だが、
心がささくれ立ち、ヒビ割れている時ほど大島弓子のネームは心に沁みる。とりわけ、70年代の作品については、
その絵の繊細さと共に、彼女の言葉選びの美しさは、外界(世間)とのディスコミュニケーション回避の手法として使われているように思えるので、なおさらである。

「まるで/あたりをつつむ闇そのもの/恋人の病の時の/胸の痛さ/知らない土地での夕暮れ/一人帰った/誰も住まぬふるさとの家/声のせぬ家」(本作より)
「きえゆく昼/かえる鳥/一番星/魔が刻だ」(「たそがれは逢魔の時間」より)
「闇は/むらさき色になり/月は満月に近づき/遠くで風が/高い波長で/カモーン とよんだ」(「綿の国星」より)

また、大島弓子を含むいわゆる「24年組」の作品を評して、しばしば「文学的」という表現が使われるが、
理由として彼女らの言葉への信頼度が高いことがあげられる。なかでも特に、文章表現の多弁さに特徴のある大島作品だが、
それが昇華されたもうひとつの例として、ドストエフスキーの『罪と罰』を漫画化した『ロジオン ロマーヌイチ ラスコーリニコフ』で、
この作品とは、要ともいえるシーンの台詞に、原作のままではない、作者自身の創作したものが使われていた。
この台詞が、大島作品の全てに共通する哲学になっているように思われるので、下記に引用したい。

「君はああいう一歩を踏み出しておいて/なぜ今になって結果を恐れるんです/それこそ恥辱ではありませんか/
君は無神論者かもしれないが/生活を いのちを 愛することはできるでしょう/君はまだ若い 機知に富み 美しい/もっと生活なさい!」


橋本治がかつて評論集『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』で指摘した、
「今までの哲学って全部ダメ、だって怒鳴ってばかりいるんですもの」の対極にあるものとして大島作品を挙げたけれど、
その“哲学”はこの台詞に表現されているという気がする。また本作「ハイネよんで」も、シカに育てられた野生の少年との関係を通じて
一組の夫婦が、夫婦とは、関係とは、愛とは? について考える=哲学する作品である。山中の家というひとつの隔離された舞台のうえで、
それらをディスカッションしていく作品、といってもいい。生きていくということは考え続けることである、ということと、
試行錯誤の向こうに、けれど私たちはひとつの答えを得ているのだ、という凛とした態度。そのふたつは、デビュー当時から彼女の作品の中に流れている重要な要素だろう。
本作は決してハッピイエンドではないかもしれないが、ファンタジックな設定の中に、そうした大島作品の「毅然とした透明さ」が味わえる一編である。


「七月七日に」大島弓子(白泉社文庫『さようなら女達』収録)
「十二月八日の朝/寝床の中でラジオをつける/戦争が始まったと言った/
ああもう/この世はおわりだ/みんな死んでしまうと/母に泣きついてから二年もたつと/
いやいや/ここは東京から/ずいぶん離れているので/死なずにすみそうだと/わかってきた/昭和十八年の初夏のできごとである」

つづみは13歳。戦時中とはいえ静かな山あいの土地で、長身で美しく「かなりふうがわりな精神主義者」の母と二人で暮らしていた。
ある日をきっかけに「かぐや姫みたいに」泣きはじめた母を慰めたいと思っていたつづみは、
幼なじみの桃太郎から、彼の兄・健太郎が母を愛していて、結婚を望んでいることを聞かされる。
つづみは、母のためにとこの結婚を応援するが、母は簡単に首を縦には振らなかった。なぜなら母の正体は……。
画面を埋める緑の風景(風にゆれる木の葉、散る葉、反射する陽光など)が何ともいえぬ透明感をかもしだし、
独特のナレーションの残す余韻とともに、作品にえも言われぬ官能性を与えている。
川のなかで泳ぐつづみの母の姿など、幻想的な描写も印象的で「純粋に愛だけで繋がれた親子」というテーマとともに、
まさに
「すこぶる鮮明な/夏の光と水の反射を/正視できずに見るような/印象で存在する」このうえなく美しい掌編。


「いたい棘いたくない棘」大島弓子(白泉社文庫『さようなら女達』収録)
「ぼくは こんど15だけれど/心は もはや老人のよう」な日々を過ごすまもるの学校に、幼なじみのかほる大将が転校してやってくる。
今は有刺鉄線に囲まれて入れない空き地のなかで、かほると遊びに熱中した日々を宝物のように思っていたまもるは、
再会を喜び、その思いとかほるへの憧れは次第に深まっていく。二人は、恋人にふられて以来、
自分を投げたような日々をおくるまもるの姉モエに笑顔を取り戻させようと結託するが、計画を進めるうち、
かほるはモエを愛していることに気付いたとまもるに打ちあける。有刺鉄線の中、という聖域と、
憧れと紙一重の恋心を失って成長する少年の姿をみずみずしく描いた小品。
ラストが当然のように異性愛に着地するのが弱さかもしれないが、
クライマックスの
「ごめんね/かんむりを/とりにきたよ」という台詞に凝縮された、トラウマ克服の瞬間が感動的。


「パスカルの群れ」大島弓子(白泉社文庫『バナナブレッドのプディング』収録)
高い葦の林がある川沿いの町。そこに暮らす公平の初恋の相手は、同級生の少年だった。
息子の片恋に気付いた父親は、公平をまっとうな道に戻すべく、親友の娘・結(むすび)を家に招くのだが、
公平の思いに共感した結は彼の恋を応援することに。結の助力で、女装した公平は初恋の少年の後をつけることに成功するが、
公平を本当の女の子と信じた相手は彼にひと目惚れしてしまい……。
少年同士の淡い心の触れあいと、少年少女の友情を、爽やかな語り口でファンタスティックに綴った逸品。
関西テレビの深夜枠で一度ドラマ化され、DVDも発売(05年8月)されている。



「バナナブレッドのプディング」大島弓子(白泉社文庫『バナナブレッドのプディング』収録)
「きょうはあしたの前日だから……だからこわくてしかたない」
自称「イライラの衣良」こと三浦衣良は、転校先の学校で幼なじみの御茶屋さえ子に再会する。
唯一の理解者である姉の結婚を控えて、
「血液がフリーズドライ化しそうなほど」の不安を感じる衣良に、
さえ子はボーイフレンドを作るよう進言するが、衣良が口にした理想の男性像とは「世間にうしろめたさを感じている男色家の男性」だった。
そんな男性のカーテンになって生きたいという衣良の言葉に戸惑いながらも、さえ子は兄・御茶屋峠を男色家として衣良に紹介し、
衣良は芝居をうつ峠と、そうは知らぬまま結婚式を挙げる。さらに、峠の恋人役を頼んださえ子の憧れの少年・奥上が、本気で峠に恋してしまい、
彼と彼の愛人である峠の大学の教授・新潟との関係も複雑なものに……。
などとストーリーを解説するより、一読してその圧倒的かつ魅力的なネームの洪水、
印象的なディテールの数々
(薔薇のしげみ、夢の中の人食い鬼、バナナブレッドのプディングなど)に溺れながら読み進んでもらうのがお薦め。
物語はあくまでも衣良という少女の精神面にスポットを当てながら進んでいくが、奥上の峠への恋心、新潟教授の嫉妬心、
兄のふりをして奥上を励ますさえ子の行動など、彼女をとりまく複雑な人間関係もどれも心に沁みるものがある。
以前、誰かの評で
「この世がどんなに雑踏に包まれ、どんなにノイズにまみれていても、大島弓子の耳には世界の周辺で誰かの流す涙の音が聞こえている」と書かれていたが、
そうした繊細な感性と、現実の痛みにファンタジィの糸をかぶせて織り上げてしまう表現力が相まって完成された「綿の国星」に並ぶ70年代の代表作。
思春期の少女の不安定な心理を描ききった、もしくは「恋愛する/しない」というテーマにて語られることの多い作品だが、
それだけでなく、もっと根源的な問題、つまり、両親からも疎まれ、自分の存在を肯定できず、「男色家のカーテン」になることでしか生きる意味を見いだせず、
崖っぷちをウロウロしていた少女が「また あしたね」と言えるようになるまでの物語、生きる意志を見いだせるようになるまでの物語、だといえる。
「また あしたね」と言えたその先に待っているのが悲劇か喜劇か、
あるいは橋本治が指摘するように衣良の将来は「ダリアの帯」(白泉社文庫)の発狂するヒロイン・黄菜なのかもしれないが、
何はともあれこの物語には「あしたね」という言葉とともに、読者の背中を押してくれる力を持っている。
そうでなければ今日まで読み継がれたり、
「心が弱くなったときには必ず『バナナブレッドのプディング』を読み返す」と断言する40代男性(筆者の知人)も存在しないだろう。
とりわけラストの衣良の姉・沙良と、まだ生まれていない赤ん坊との会話は感動的で、
この作者らしい視点から「生への肯定の意思」が100%表現された名場面、名台詞であると思う。
また、この他にも、大島作品には、男色家もしくは男色的感情がキーポイントになる作品は数多い。
主なものだけ下記に羅列するので、興味をお持ちの方はぜひご一読を。

※=同性愛感情が作品そのもののキーポイントになるもの、
■=主人公に関わる存在として男色家が登場するもの、
□=男色家、もしくは同性愛感情を持つように装う人物が登場するもの、
◆=男色家という言葉自体がキーワードになるもの



※「つぐみの森」(朝日ソノラマ/大島弓子選集2『ミモザ館でつかまえて』収録)

■「いちご物語」(白泉社文庫)「全て緑になる日まで」(白泉社文庫『全て緑になる日まで』収録)

□「ローズティーセレモニー」(白泉社文庫『四月怪談』収録)

◆「全て緑になる日まで」(白泉社文庫『全て緑になる日まで』収録)

※「まだ宵のくち」(白泉社文庫『ほうせんか・ぱん』収録

■「裏庭の柵をこえて」(白泉社文庫『夏の終わりのト短調』収録)

ただ、やっぱり大島作品における男色というのは、作品のテーマを表現する一種のキーワードとして存在するものであり、
彼らを通して描かれているものは単に「同性を愛する」という感情・行為ではなく、その先にある各作品のテーマである、という気がする。
それが何かというと、やはり“愛”としか表現しようがないもの、という気がする。
最後にまたしても橋本治氏『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ・後篇』からの引用をしてしまうと
「“愛”を成立させるために、大島さんは“欲望”にひとつの枷をはめました。
それが“男色”です。大島さんが男色をよく取り上げたのは、“愛”の存在を確かめたかったからです。」
ということになるだろうか。けれど、そこで確かめられた“愛”が、やがて全ての枷を超えて、
宇宙的といってもいいような広がりを見せるのが、大島作品の醍醐味なのですが。



「ロングロングケーキ」大島弓子(白泉社文庫『ロングロングケーキ』収録)
「その夢では/地球の海全体が/波の形そのままに/凍っていた」
「見わたすかぎりの/海原(アイスバーン)を/ぼくはひとり/オートバイにのって/猛スピードで走っている」

という夢を見ていたコタは、突然、目の前に現れた光る物体にぶつかり、目を覚ます。
だが、目覚めたはずの世界には、人の姿をしたその物体がおり、コタに「自分は全壊した星からテレポートしてきた宇宙人です」と名乗る。
これもまだ夢の続きだと判断したコタは、その宇宙人を「宇さん」と呼び、一緒に暮らすことにした。
変身能力のある宇さんは、コタの理想の美少女に姿を変え、二人の夢のような生活が始まるのだが……。
わたしたちが「夢」と認識している「夢」とはどこまで「夢」で、「現実」とはどこまで「現実」なのか?
夢の中で最愛の相手に出会ってしまったらどうすればいいのか?
増殖する夢、心の中に閉じ込めた真意、すべてが現実で、すべてが夢でもある世界のなかで、
コタが宇さんを通して向き合う自分の真実には、親友シシオへの恋心や、AIDSに犯された同級生・天の川への共感も含まれていた。
大島作品にしてはSF色の濃い作品だが、冒頭のアイスバーンの風景に表現されるような寒色のイメージが全編を通して感じられ、
淡々とした語り口のうちに、狂気と正気の狭間、夢と現実とは、私たちが考えているほど異なるものなのか?
という疑問が暴き出されていく。
冷静に考えれば恐ろしい内容のはずなのに(何といっても「ここに生きているあなたは本当に現実のあなたですか?」と、
こちらの足元を揺さぶる問いをしらっと投げかけてくるのだから)ほのかな暖かみが読後に残るのは、
これが、コタと宇さんのラブストーリーでもあるからかもしれない。コタが旅する夢のイメージは、数少ないがどれも美しく、リリシズムに溢れ、
印象的。「世界はいくつもある」「目に見えるものだけが存在しているものではない」というテーマは、いかにも大島弓子的だが、
同時にそれを表現しきったという点で、大島哲学のひとつの頂点ともいえる作品。
なお、本作は2004年に角川書店から発行された作品集『秋日子かく語りき』にも収録されているが、
こちらでは、天の川の病名がAIDSではなく「疫病」と改訂されている。



「つるばらつるばら」大島弓子(白泉社文庫『つるばらつるばら』収録)
「ぼくは/夢と現実の区別が/つかない子供だった」継男は子供の頃から何度も繰り返しおなじ夢を見ていた。
細い道・垣根のバラ・四段の石段・木製のドア。その家ではいつも知らない男が継男に呼びかける。「おいで」と。
物心ついたときからスカートをはくのが好きだった継男は、成長して、同性に恋心を抱くようになる。
周囲に察され、手ひどいやりかたで初恋を失った継男は自殺を図るが、意識のない中で、夢の男が自分を「たよ子」と呼ぶ声を聞く。
自分の前世がたよ子という女性で、夢の中の男が自分の夫だと気付いた継男は、一生をかけて、夢の家を探す旅に出る。
人生を賭けて夢の家を追い求めた男性(途中、手術して女性化)を主人公にしたSF風味のファンタジー。
困難にあっても「さあ、次の幕だ!」とどこまでも夢の家を追い求めていく主人公の姿が清々しく、
ラストは究極の少女漫画的大ハッピィエンドだが、純粋に「よかったね」と祝福できる爽やかな感動が残るところが大島マジック。
なお、本作は「メゾン・ド・ヒミコ」の犬童一心監督が、「金髪の草原」に続いて映画化を企画していたとか。
諸事情により頓挫したそうだが、「メゾン・ド・ヒミコ」のアイデアは映画「つるばらつるばら」の企画の中から生まれてきたものだとか。
是非、本作の映画化にも再び着手して欲しいと、切に望むところ。
余談ですが、この文庫に収録された作品は本作のほか(同性愛とは関係ないものの)登場人物が全て精神年齢の姿で描かれた『夏の夜の獏』、
拒食症と過食症の真実をみごとに描いた『ダイエット』、スカッと爽快なスクラップ家族再生ストーリー『毎日が夏休み』、
天才小学生と大学生の凸凹な恋愛(?)関係を描いた『恋はニュートンのリンゴ』など、逸品揃い。安眠のお供にぜひ。


七月七日に/大島弓子 白泉社文庫『さようなら女達』収録
太平洋戦争真っ盛りの日本。のどかな田舎町に暮らす少女は、大好きなかあさまと二人、静かな日々を営んでいた。
けれど、ある日、一通の手紙が届いたのをきっかけに、かあさまの態度が変わりはじめる。夜中に泣いたり、考えこんでへまをやらかしたり……。
少女の脳裏を、もっと幼い頃に見た月の夜のかあさまの姿がよぎる。
川で泳いでいたかあさまは、彼女にきつくこう言った。
「いい?こっちを見てはいけませんよ。こっちを見たらもう、かあさまはあなたのもとへ戻れなくなりますよ」
月の光の中のかあさまはとてもきれいだった。
でも、あの夜のようにかあさまがどこかへ行ってしまうのでは?不安にかられた少女が、最後に見たかあさまの姿は……。
……というかこれを「衆道もの」として紹介する事自体ネタバレになってしまうのではと不安なのですが(^^; 
少女の目を通して語られる“かあさま”の姿と、かあさまを愛する男性の姿、初々しい初恋などが瑞々しく、
ファンタジックに綴られるまさに“珠玉の”作品。余談ですが表題作「さようなら女達」も(衆道とは無縁ですが)傑作。

 
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