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shinobu様ご推薦 長野まゆみ特集3

『千年王子』(河出書房新社)
遥かいにしえの時代、14歳になる王子は、父王の死去に伴う兄弟間の王位継承権争いに巻き込まれていた。
彼は、兄への忠誠を示すため、奥地にある聖なる泉を求めて長い旅に出るが、
過酷な旅路の中、彼の心にあるのは国に残った妃、E・lys・ion(エリュシオン)の面影だった。
千年ののち、世界では女性が総人口の一割以下となり、エリート男性以外とは接触を持たないという体制が敷かれていた。
衛星都市にあるワールド・ツアー校では未来のエリートを目指す少年たちが集まり、新学期の履修登録を行なっていたが、
その一人ルカは、学校で人気最低ランキング一位を更新中の教官シンヤによる学習プログラム《再生と救済のプログラム3rd》の
プレビューで不思議な体験をする。
ヴァーチャル空間の中の彼は、臨月の女性になっていたのだ。
性差を超えた体験、どこか見覚えのある世界。動揺するルカは本格的にそのプロ
グラムを履修しはじめる。身体のほぼ半分を占める補助機械ウェアラブルハードによって
身体障害を克服している同級生リヨンと共に……。
古代の王国で起こった悲劇が、一千年の時を超えて未来の学習プログラムに再現されるという物語の中に、
生と死、経験と記憶、予言と実現というテーマが幾重にも重なりながら描かれていく、
スケールの大きい作品。
『サマー・キャンプ』がそうだったように、ここまで性別の枠が取り払われると、
もはや異性愛、同性愛という視点から本作を見るのはもはや不可能だが、
少年たちのお互いを想う気持ちは、ここでも丁寧に描かれている。
過去と現在が複雑に交錯する展開にもかかわらず、すんなり読み進められるのは、
全てが「エリュシオン=極楽」というキーワードでつながる設定のせいだろうか。
読後もかなり爽やかな後味が残る。

『若葉のころ』(集英社文庫)
凛一シリーズの4作目にして完結編。
京都の大学に進み、二回生になった凛一。
彼はまだ心身の傷が癒えない従弟の正午と同居していたが、そこに突然、アメリカから帰国した有沢が訪ねてくる。
心が騒ぐ凛一だったが、さらに、明倫大のフットボール部の主将である氷川についての情報が
外部に漏洩したとの疑惑がもちあがり、その嫌疑をかけられて……。
氷川との感情のもつれ、正午の変化、千迅の過去など『彼等』で現れた問題のうち、
あるものは解決し、あるものは広がり、それらの重なりのうちに、
凛一自身も記憶になかった幼い日の出来事と母の姿が次第に明らかになっていく。
本シリーズの特徴として、浮世離れしたキャラクター設定(主な登場人物はすべて華道・茶道などの家元家に関わりがあり、
しかも美男子揃い)でありながら、何故か少年の成長記としてのリアリティが破綻しないことがあるが、
それは何よりも、恋愛であれ対人関係であれ、ある状況に向きあったときの主人公の内面描写に
何よりも重きを置いているためだと思われる。
華道家元の跡取り、という背景もあれど、凛一が自分の置かれた立場や考えについて、
どこまでも真摯に向きあい、掘りさげていくさまは「内省小説」というジャンル名を進呈したくなるような、
一種のオリジナリティを持った緊張感を作品に与えている。
とりわけ本作では、凛一自身も忘れ去っていた、母親にまつわる過去の出来事が浮上するだけに、
その「内省」ぶりに加えて、それらの出来事を受け入れ、前に歩み出す凛一の姿に、
彼の成長がひときわ印象づけられ、氷川との関係にひとつの結論が出されて、
新しい段階を迎えるラストがとても清々しい。
また、メギの木のエピソードと共に「若葉のころ」というタイトルがここで効いてくるのも、心憎い仕掛けだ。
これで一旦完結したとはいえ、彼らの物語はまだ今後も別な形で描かれる予定があるらしいので
(家元としての凛一が抱えることになる様々な問題に踏み込み、また『東京少年』とのコラボレーションも考えられているという)
そちらも期待して待ちたい。

『東京少年』(光文社文庫)
常緑(ときわ)は14歳、母は彼を生んだのちに家を出、プラント・ハンターの父は海外での仕事が多いため、
叔父の季彦と共に暮らしている。目下の興味は、父が持っていた写真に写る幻の花“黒蝶椿”の行方だが、
花への道を辿るうち、自分の出生にまつわる秘密を知ってゆくのだった。
《Tsunomegawa》を名乗り、直接姿こそ見せないが、常緑と父の行く先々でその存在をほのめかす母親の存在を中心に、
常緑が頼り、ほのかな恋心すら抱く年上の友人・光や、椿の花が縁で出会った〈墨花亭〉の主人・連玄菊、
その弟・玄藤らの複雑な人間関係の糸が解きほぐされていく様がスリリング。
父と玄菊、光と玄藤の関係の、詳細は語られないがゆえに想像をかきたてられる描き方が印象的で、
また、東京タワー、芝公園界隈といった風景の描写が、どこかノスタルジックで心落ち着く雰囲気を醸しだしているさまも、心に残る。

『猫道楽』(河出書房新社)
桜の季節、「猫シッター募集」というアルバイト募集の掲示を見た学生の一朗は、日暮星という青年と共に〈猫飼亭〉を訪れる。
彼らを出迎えたのは、この家の次男・駒形芳白と名乗る、膝の上に猫を乗せ、煙管をくゆらす美青年だった。
彼は、一朗たちに口約束ならぬ口づけをすることで契約を交わす。
やがて一朗は、契約した仕事の内容が猫の世話をすることではなく、
自分が猫として、この家の兄弟たちに飼われることだと気付くのだったが……。
〈猫飼亭〉と名付けられた屋敷に住む兄弟たちを巡る連作短編集。

副業として男娼を始めた会社員、男性と心中した兄の記憶に縛られる青年、
勤務する会社の社長令嬢にいいように振り回される男などが、縁あって次々にこの屋敷を訪れ、
兄弟たちと性関係を結んでゆく。
父親ゆずりの淫蕩な血を匂わせる兄弟たちは、それぞれに性戯のテクニシャンであり、
〈猫飼亭〉を訪れた男たちは、彼らとの快楽に身も心も浸ることで、抱えるトラウマを癒していくのだった。
そうした題材だけに、過去の著者の作品と比べて、閨房シーンは一段とエロチックだが、
かといって直接的な描写に走ることなく、ほのかな品の良さと、春画を眺めているようなおおらかな明るさが感じられ、
登場人物たちがそれぞれ心の欠落を埋めていくさまを、
こちらも日向に座る猫のようないくばくの幸福感をもって見つめることができる。
全5篇の物語はひと巡りして完結しているが、ユニークな四兄弟の在り方には読者の想像を誘う余地が多く、
円環が閉じきったという印象は薄い。冒頭の桜の花のごとく、読後にははんなりと色っぽい余韻が漂う。

『コドモノクニ』(河出書房新社)
昭和30年代の「あしたはもっといいことがある」と考えていた子供たちの姿を、
学校生活を中心に綴った三つの短編を収めた作品集。
いずれも主人公の少女の一人称で描かれているが、中学生活を舞台にした一編目の「小鳥の時間」では、
同級生たちとの会話の中に、オカマダ君と呼ばれる男の子の話や、
主人公が自分のスクラップ帳に貼ってある「中近東のどこかの国の少年」に似ていると関心を抱く浦くんと、
同級生の黒田くんの仲良しぶりが「あやしい」と囁かれるというエピソードが登場するが、
二編目の「子どもだっていろいろある」になると、そうした噂を立てられる男子たちの姿にスポットが当てられていく。
もちろん基本になるのは小学校生活のスケッチなのだが、遠足や運動会、給食にお楽しみ会、
夏休みの自由研究といったエピソードが、淡々と、しかしどこか弾んだ語り口(それは、まるで毎日が遠足の前日であるかのような)
で披露されていく中、同級生の要くんとバンくんという二人の男子の様子が、要所要所でスケッチされる。
二人は運動会の二人三脚で組み、紅いヒモで足首を結んで練習に励む姿を「紅い糸の伝説だねえ」と
女子に冷やかされたり、本番直前に転んだバンを要くんが手当てしてリレーに間に合ったところ、
翌日から教室のあらゆるところに二人の相合い傘が出現する、といったエピソードなど、
腐女子というのはいつの世にも存在していたのかと、面映い気分になる。
特に、彼らが要くんの転校後も交流を保っていたことがわかる、中学の修学旅行のくだりでのオチは、
その思いをさらに上塗りさせられて苦笑いさせられるが、主人公が家族と江ノ島へ出かけたおり、
稚児ヶ淵で文楽の桜姫の話を聞くくだりや、童話の書きかえ遊びで「シンデレラ」を王子さまどうしの話にしてしまうなど、
散りばめられた細かなエピソードが面白く、読んでいるうちに
主人公らと共に豊かな時間を過ごしているような気にさせられる一編だ。
最後に収録された「子どもは急に止まれない」は、その番外編とでもいう話。
お祭りに集まってきた小屋で働く両親を持つ「セイちゃん」という子が十日だけ転校してくるという物語で、
これもほのかに同性愛めいたオチがつく。全体は、昭和30年代という、
日本が最も胸を張り前を向いていた時代の子どもの姿を生き生きと描いた作品であっても、
多くを語らないがゆえに、読者の想像力を刺激する著者流のエロティシズムはここでも健在なのだった。

『ユーモレスク』(マガジンハウス)
6年前、弟の真哉は、貯水湖への遠足に出かけ、そのまま戻らなかった。
以来“わたし”こと周子とその家族は、時の止まったような空白を抱えながら暮らしている。
5年生だった弟の引率の教師は、壁一枚隔てた隣の借家に住む比和家の長女だった。
それから何とはなしに両家の交流は途絶えていたが、その長女が急に亡くなったことで、
弟である文彦と“わたし”との間にささやかな繋がりが生まれ、それをきっかけに、現在と過去が入り混じり、
消えた弟にまつわる真実が露にされてゆく。
それらは、同性愛者である文彦、彼を愛する少年・和など、何らかのかたちで弟に接点をもつ人物の登場により、
明確にというよりは、主人公のみが納得するかたちで解きあかされていくのだが、
物語が進み、人間関係の糸が絡まれば絡まるほど、不在の弟の気息が伝わってくるような描き方は、
彼が沈む(?)貯水湖のように冷ややかな語り口もあり、ちょっとした怪談話の趣きすらある。
また、本筋に絡んで描写される、主人公が勤める百貨店の紳士用品売場の様子、
スタッフが客に向ける厳しい視線、女同士で交わす会話の生々しさやファッション談義、
主人公が和に向ける女としての視線など、これまでの長野作品では前面に出ることがなかったエピソードの数々は、
賛否両論かもしれないが「出現する世界を、裸眼ではなく、
一枚の澄明な硝子を透かしたように描く」作者の姿勢は健在で、本質的なところは変わっていないように見える。

『紺極まる』(大和書房)
離婚したばかりの予備校講師・川野が新居に決めた部屋には、なぜか浪人生の真木敦がいた。
サギに遭ったと知りつつも、金も行き場もない川野は、真木に強引にも部屋のシェアを申し出る。
仕方なく承知した真木は、実は川野の勤務先の生徒だった。
二人のぎこちない同居生活が始まるが、いつしか川野はその生活に居心地のよさを感じ、
その心も真木へ傾いていく。だが、真木は、地元の大学に進学した浦里のことを思っていた。
川野の過去と現在、真木の浦里への想い、彼らをとりまく人々の想いが、丹念に描かれながら、
決して声高になることなく、淡々と綴られてゆく姿が好もしい短編の連作3本を収録。
とりわけ会話部分の「」を外し、地の文と続ける文章が、独自のテンポと緊張感を醸し出し、
物語の流れを引き締めている。

『よろづ春夏冬〈あきない〉中』(文藝春秋)
「別冊文藝春秋」に掲載された作品を集めた短編集。
ほのかにファンタジーとしての仕掛けがほどこされた物語全14篇は、
そのほとんどが男性同士の恋(というよりそこに至るまでの駆け引き)を綴っているが、
印象的なのは物語の核になる小道具の使い方で、貝殻細工の函、置き薬、古文、白絵
具、書、白瓜、苺のショートケーキ、破れた雨傘、蓋つきの飯茶碗など、それぞれ魅力的に登場し、
主人公たちの佇まいややりとりを豊かに彩っている。
薬売りに躰を乗っ取られる男、通学電車の中で化粧することを義務づけられた学生、
唯一の部員として顧問教師と二人で昆虫採集に赴く少年、絶縁していた兄の登山仲間と、
思いがけず桜の下電車再会する青年、瓜子にとりつかれて食欲が止まらなくなる男など、
一本一本の話にほとんど繋がりはないが、転がすといくつもの色に変わるビー玉を眺めているような味わいのある一冊。
書名も遊び心(秋がないので“あきない”中)があって楽しい。

『あめふらし』(文藝春秋)
 ……あめふらし。ああ、そう呼ばれてる。……誰に。さあ、誰ともなく。 
 橘河は縁先へでて、子どものようにしゃがんだ。燥(かわ)いた地面に指で字を
かく。雨、その下に口をならべる。ひとつ、ふたつ、……みっつ。つづいてエの
字を縦横に組む。市村はそれが雨乞いの呪具(じゅぐ)だと知っている。授業で記
紀を読む講義をとっている。 
 ……あめふらしか。 
(「蛻のから」P.39より) 


都心の一等地に事務所をかまえるウヅマキ商會。
大学生の市村岬(コウ)は、高額の給金にひかれてアルバイトをはじめるが、
雇い主である橘河の正体は、死んだばかりの者からタマシイを取りだす術をもつあめふらしだった。 
実は市村のタマシイもすでに橘河の手中にあり、望むと望まざるにかかわらず、
市村は橘河のもとで働き続けざるを得なくなる。だが、ウヅマキ商會に持ちこまれる仕事は、
彼の理解を超えた不可思議なものばかりだった。 

「極上和風幻想譚」と帯にあるように、
『三日月少年の秘密』以降の作品群にたえず姿を見せてきた“あめふらし”が中心となる物語は、
どの頁を開いても婀娜っぽく、艶冶な空気がたちのぼってくる。 
タマシイの蒐集人、あめふらしの前ではこの界(よ)とあの界、過去と現在などという時空の境など溶解し、
「蛇だの蟇だのこうもりだの」鬼に老女に黒珍が、生き生きと跋扈する。 
それらの魑魅魍魎に囲まれて、蛇を捕まえに行くはずが、いつのまにか見知らぬ女と祝言をあげることになったり、
階段をおりただけで昭和四十二年まで時代を遡ったりと、ウヅマキ商會の業務の奇妙さに翻弄されつつ、半ば居直って仕事を
続ける市川の、莫迦なのかそれとも大物なのかわからない様子が生み出すおかしみや
、彼とその兄(男と猫と爬虫類をこよなく愛する)の抱える秘密、各章の題とそれにまつわる古事や暗喩が重なり、
ほぐれて、この界ならざる者たちの姿が鮮明になってゆく、語り口の練れた感じも実に魅力的。 
また、タマシイとその器との関係には、身体/記憶というテーマも現われ、妄執によってこの界に留まる者たちの姿、
性愛のさまからは、往年の『銀河電燈譜』『水迷宮』を思わせる宿世のありようも透かし見えてくる。 
いずれの挿話にも、望むことなく躰を乗りかえてしまう者の、もしくはあの世へ行くことができずに彷徨う者たちの、
それぞれの空ろさと哀しみが滲み出る。「定めなき界の定めを知る」とはこういうことか、と思わせられるものがある。 

「ある時代のモダンな様式を残す」ウヅマキ商會のビルをはじめ、
破風つきの瓦屋根をのせた屋敷に湯屋、紅い房飾りの鏡台、千年玉子に藤に菊の花。
例によって細やかなディテール描写には、この作者の描き出す世界にしか存在し得ない和の美がたちこめ、
物語の中核を成す男たち、橘河に仲村、鷹司、そして市村と、それぞれ個性的な色男たちによる恋模様も、
何ともいえず艶めいた空気を漂わせ、印象的。 
そして、この作者の描く“水”の情景は常に魅力的だが、
本作もタイトルに相応しく、雨に海など、諸々の水が全編に溢れている。 
湿度高く、水滴の流れる(それでいて澄明な)硝子板を通して世界を見るような感覚、たゆたうような、それでいて心地の良い読後感は、
この作者ならではのもの。まだすべての謎が明かされたわけではないので、続篇にも、大いに期待したいところ。 
カバーイラストは作者自身の手になるものだが、こうもりの紋を散らしたデザインが何とも粋。
外観も含め、このあやかしの日本に、どっぷりと浸りたくなる作品だ。


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