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shinobu様ご推薦2

『淫月』福島次郎(文藝春秋)
男性同士の愛を描く短編7話+長編1話からなる作品集。 
男性専門のホテルで、肥った男と共に泊まったはずの若者が姿を消し、その不思 議を思う「奇腹譚」、
少年の海に灼けた肌に誘われた男の欲望を、一匹の蛍が遮 る「蛍」、抱くことができなかった青年の幻影が、男の心に恐怖を生む「晩夏」 、
老齢を迎えた教授の「初めてで最後の恋」を描いた「陽炎」、すでに死の床に いるはずの男の逢瀬を目撃する「冬野」、
藤蔓を思わせる若者との情事に耽溺す る男を描いた「逝春」、天才画家と彼のモデルの男たちとの関わり、その苦しみ を綴る表題作、
熊本を訪れた有名作家(Y先生、と書かれてはいるが、おそらく は三島由紀夫)との交流を描いた「飛魂抄」など。


『トーキングへッズ叢書No.24 少年×タナトス』(書苑新社)
「A感覚とはかなさの美学。」と題し、幻想され欲望される少年という存在、そ の価値に不可分に結びついた“死”と“儚さ”のイメージを検証する特集号。 
「薔薇族」の表紙絵を担当していた甲秀樹の作品の紹介に始まり、長野まゆみの 小説における少年像、ヴィスコンティの『ベニスに死す』、
萩尾望都の『トーマ の心臓』、ロートレアモン『マルドロールの歌』にみる同性愛、足穂に松田修、 須永朝彦の著作が取り上げられ、他にもサド『ソドムの百二十日』、
三島由紀夫 『孔雀』、金子修介監督『1999年の夏休み』、中村明日美子『コペルニクスの呼 吸』など、
さまざまな作品が紹介されていて、さながら少年&少年愛カタログの 観がある。 少年に興味のある方もそうでない方も、カタログ的に目を通すのにはお薦めの一 冊。


『すべてを失くして -内藤ルネ自伝-』内藤ルネ(小学館)
近年、若い世代での再評価が著しい画家・内藤ルネ氏の自伝。
画家として一世を 風靡するまでの波乱万丈な半生、こだわり続けた“かわいい”という美意識、師 ・中原淳一との関係、
それから恋愛(男性と)の事など、豊かな語り口で語られ ており、単なる画家の自伝を超えて、戦後文化の一側面を知るためのひとつの資 料にもなり得そうな一冊だ。
但し、ここでも語りきれなかったという赤裸々な恋愛体験、若い愛人との「黄金 の6年間」については、
「薔薇族」2005年10~11月号のロング・インタビューに て語られているので、興味のある方は併せてご覧になることをお薦めします。
『チャンバラ・クィーン』出雲まろう(パンドラ)


『チャンバラ・クィーン』出雲まろう(パンドラ)
「ただ、これらハチャメチャなチャンバラ娯楽映画には、デタラメなだけではない、確信犯的なお粗末ぶりと、
わけのわからない空騒ぎの情動があり、女が男に なって、男が女になって、最後にはハッピー・エンド。
ただそれだけでは転覆的 とはまったく言えないが、セクシュアリティとの戯れ、揺れ動くジェンダー、ド ラァグ・キングとドラァグ・クィーン、
こうしたセンスがほとんど様式化されて 繰り返しあの黄金時代の大衆向けチャンバラ娯楽作品に登場したのは確かなので ある。」(「はじめに」より)

時代劇ファンの著者が、戦後チャンバラ娯楽映画のもつ「誘惑に満ちたキャンプ の質感」に着目し、
あえて“クイアの文脈で語ること”に挑戦した評論集。とい っても、著者自身によるイラストも掲載されており、肩ひじ張らずに楽しめる。
美空ひばりの若衆姿には、女/男/ジェンダー/階級なんか飛び越えてやるとい ったムホン気が感じられる、
「雪之丞変化」で描かれる衆道の空気、長谷川一夫 の女形ぶりの見事さ、「荒川の佐吉」における、
男二人が乳のみ児(男の子)を育てているという設定のうえに「クィア家族のゆくえ」を考えるなど、
目からウロコの深読み、説得力あふれる文脈が楽しめる。読み終えると、そこはかとなく チャンバラ娯楽映画への印象が変化しているような一冊。


『おしゃべりな映画館』淀川長治・杉浦孝明著(全4巻/マデラ出版)
雑誌「広告批評」に連載された、故・淀川長治氏と杉浦孝明(おすぎ)の対談に よる映画評シリーズをまとめたもの。
一見和やかに話しているようで、時として過激な言葉も飛び出しながら、ソフィ スケートされた会話劇を眺めているような印象が崩れないのは、
二人の人徳(? )のたまものか。作品によっては題材から脱線して、男性相手の初恋談義になる など、そこかしこで覗くクイアな感性も楽しい。 
一巻ごとにかなりな厚みのあるシリーズだが、読み応えに反比例して、あっとい う間に読み終えてしまえるのは、
上記に加え語り手の深い「映画愛」が、会話の そこかしこから滲みでているためだろう。映画評として、対談集として、どちら からも楽しめる極上の本。
「二青年図-乱歩と岩田準一」岩田準子(新潮社)


「ナルシス」桐生操(大和書房『愛と残酷のギリシア神話』収録)

「二青年図-乱歩と岩田準一」岩田準子(新潮社)

「男色物語」橘外男(中央書院『橘外男ワンダーランド ユーモア小説篇』山下武責任編集 収録)
「予の男色史にとってその時分が最も全盛の時代ではなかったかと考えているのであるが、 刑法第百七十六条によって、また今度手に入れた二人のチゴのうち、野口の方はそうでもなかったが、小倉という方は全校一と賞賛してもいいくらいの すばらしい美少年で、クリクリとした混血児(あいのこ)のような瞳といい、桃井や高橋なぞとはケタ外れに惚れ惚れするような涼しい東京弁といい、 フサフサした女の子のような頭髪といい……新しく東京の中学から転校して来た中佐の一人息子で、 予は二、三人の競争者をブン殴り飛ばしてこの美少年を獲得したことであったから、予の恐悦その極に達して早速この少年と義兄弟の盟約を取り交わした。」(本文より) 作者が過ごした旧高崎中学での生活を背景に、劣等生ながら「色気の方だけはもはや人一倍旺盛に漲っていた」主人公の“予”が、 その性欲を満たすべく、同級の美少年に言いよって振られ、その後も懲りずに下級生を口説いてモノにし、ひとりふたりと数を増やしておこる珍騒動や、 大人になってからの、初恋の(もと)少年との皮肉な邂逅などを、コミカルに、ユーモアたっぷりに描いた作品。あっけらかんとした語り口で綴られるため 男色行為そのものにはまったくワイセツ感がなく、「はい、次。はい、次」という調子で、主人公の旺盛な性欲とそれにまつわるエピソードの数々を、 苦笑しながら肩の力を抜いて眺めることができ、美少年・小倉を手に入れた主人公が、 少年の名前が気に入らないと「昔森蘭丸が織田信長のチゴであった史実を按じて」小倉外蘭(がいらん)と名乗らせるくだりなど、 調子に乗りすぎっぷりが実に笑える。

「ナリン殿下への回想」橘外男(中央書院『橘外男ワンダーランド 幻想・伝奇小説篇』山下武責任編集 収録)
「MR.タニジャーキを蹴飛ばしたり、ワサント、マヘンダーラたちを相手にしながらも、貪るように私は少年の麗しさに見惚れきっていた。
眺めれば眺めるほど、ほとほと感に堪えざるを得なかった。この美しさに較ぶれば、
ただ白いばかりで肌膚の粗い生毛の生えた西洋の女の皮膚なぞというものは、味も素っ気もない瀬戸物の破片みたいな気持がした。
初めて私には、真実(ほんと)の美しさというものは白人よりもむしろ磨きのかかった優生の東洋人に存することを感じたのであった。
少年は微笑んだ顔を時々私の方へ見せているだけで、また窓から往来を眺めていたが、卓絶した気品はあたりを払わんばかりであった。」(本文より)


タイトル通り、日本を訪れていたインドの一藩王国の王子の悲劇を描いた作品。
語り手が作家の「MR.タチバナ」こと作家自身である、という構造になっており、本筋とは関係ないのだが、
王子のあまりの美貌に魅せられた主人公が、その美しさを思い描いて、学生時代の稚児狂いの同級生の姿を思いだし、
今さらながら稚児のよさに目覚める心境になるというくだりがある。短い場面だが、
そんなふうに自然に(?)追想されるほど、旧制校では男色が横行していたのかという気にもさせられる。


「たとえ世界を失っても」シオドア・スタージョン/大森望・訳
(河出文庫『20世紀SF?A1950年代 初めの終わり』〈中村融/山岸真・編〉収録)
英国の詩人ドライデンの劇詩『恋ぞすべて 世界を失いて悔いなし』からタイトルを付けたと思われるSF短編。
未来の地球(テラ)に降り立った「ラヴァーバード」と呼ばれる二足歩行生物。彼らを生地ダーバヌーに強制送還する使命をおびた宇宙船の乗務員が見たものは……。
「同性愛を肯定的に描いた最初のSF」として名高い一篇だが、題材が題材だけに、発表当時(50年代)のアメリカでは方々の雑誌で敬遠され、
最終的に「ユニヴァースSF」という二流誌に掲載されることで陽の目を見たという(日本では、本作が収録された作品集『一角獣・多角獣』〈早川書房〉が訳出された際、割愛された)。
このときの騒動(スタージョンいわく「同性愛者に共感するような作品を発表した途端、我が家の郵便受けは、悪臭に浸された葉書や、
紫のインクと緑の大文字で書かれた手紙で溢れかえった。」)を背景として書かれた長編『ヴィーナス・プラスX』(大久保譲・訳/〈未来の文学〉国書刊行会)は、
人類がすべて両性具有の世界レダムを舞台にしたジェンダー/ユートピアSFの傑作として名高い。また、直接的にホモセクシュアルを扱ったものではないが、
短編「ミドリザルとの情事」(『輝く断片』〈奇想コレクション〉河出書房新社・収録/大森望・訳)では、
皮肉たっぷりにホモセクシュアルを“逆差別”する男性像が描かれ、これもこれで面白い。


『浅草怨念歌』楯四郎(第二書房)
初期の「薔薇族」に掲載された作品を、メ『薔薇族』創刊250号記念出版モとしてまとめたもので、情緒てんめんたる男?男の愛憎模様を堪能できる一冊。
大正時代、今を盛りと賑わう浅草で出会った男と深い仲になった少年は、彼のために体を売る道を選択する。
関東大震災で灰燼に帰す直前の浅草に、仇花のように咲き痴れる愛憎模様を描いた表題作『浅草怨念(うらみ)歌』、
黙阿弥が名作『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)を完成させる影に、ある兄弟の不義の愛があったとして綴る「弁天小僧暗闇描画(やみのうつしえ)」、
「忠臣蔵」として名高い四十七士の仇討ちの影に埋もれた、忠義な足軽と主筋の世継との許されぬ恋の物語「寺坂失踪」、メ五月闇モメ蚊帳モメ松虫モメ花火モなど、
季節に沿った題で男の情念を描く掌編『男の夏』、罪を犯し、逃亡者となった男のかいま見た、愛する男との夢の時間「流転の季節」を収録。
いずれも、時代考証の確かさに支えられ、ねっとりと男の汗と体液の匂いの立ちのぼるように濃厚なエロティシズムが味わえる。


『少年Aえれじぃ』正木亜都(ルー出版)
劇画原作者として名を成した梶原一騎が、弟・真樹日佐夫と共著で晩年に発表した、少年院が舞台のミステリー小説。
主人公の少年・淳は真面目な学生だったが、銭湯で知り合った男に悪戯をされたことで精神的に滅入り、受験に失敗する。
それがきっかけで家出し、流れついた二丁目のバーで女装して務めはじめるが、あるとき、気にそまない客をベッドで拒んで暴行、
重傷を負わせたために少年院送りとなる。そこで出会ったヤクザあがりの青年・香月に、自分のなりたい理想の男を見て憧れを抱く淳だが、
空手の達人で無敵の腕力を誇るはずの香月は、院内で絞殺されてしまう。力では誰もかなわない香月を、誰が、どうやって無抵抗のまま絞め殺したのか。
しかも密室状態で……。弔い合戦として、真犯人探しを心に誓った淳は、危険な綱渡りと知りながら、院内の有力者たちに色じかけで近寄り、
やがて思いもかけない真相へと近付いていく。基本青春ミステリーなので、それほどきわどい描写はないものの、
主人公がゲイバーで身につけたテクニックと無意識の色気で、男を篭絡していく描写と、
彼が香月に抱くホモエロティックな感情が興味深く、ミステリーというよりも一人の少年の成長譚として読める作品。


「少年」川端康成(新潮社『川端康成全集 第九巻』収録)
僕はお前を戀してゐた。
お前も僕を戀してゐたと言ってよい。」(本文より)


五十歳を迎えた作者は、学生時代に恋着した同級の少年・清野との記憶を辿る。
かつてしたためた日記、作文、そして手紙。そこここに、若き日の自分と清野少年との恋の姿があった。
中学時代に始まり、離れてからも、24歳になるまで手紙のやりとりが続けられたさまが、ある種客観的に、
しかし底流にいくばくか熱に浮かされたような感覚をもって綴られていく。しかし、文章のすみずみに。
そこはかとなく透明な哀しみがたたえられているのは、これが「過ぎ去った時間」の物語でしかないことを、作者自身が深く認識しているからだろう。
驚くのは、この清野少年にあてた恋文を、作者がそのまま学校の作文として提出したという記述である。

「教師が何点をつけたかは忘れたが、別に内容について注意を受けた覚えはない。教師を苦笑させたらふと思う。いくら一高が自由でも非常識な作文である。」(本文より)

だそうだ。 


『村山槐多全集』(彌生書房)
大正8年に22歳で夭折した画家・詩人の村山槐多の文章作品を集めた作品集。散文詩の中に「ある美少年に贈る書」、
小説には、ダ・ヴィンチの愛人であった美少年サライノをモチーフにした「美少年サライノの首」、
また、年上の美青年との恋情を描いたエピソードのある「殺人行者」、
高僧の稚児であった美貌の酒呑童子をめぐる戯曲「酒顛童子」(未完)等、男色色の強い作品も収録されている。


『村山槐多耽美怪奇全集』東雅夫編(学研M文庫)
「悪魔と美少年の幻影に憑かれた天才画家にして夭折詩人」村山槐多の文章作品を「伝奇と怪異」というテーマで集めた作品集。
元「幻想文学」誌編集長・東雅夫氏が編集を務めている。幻想作家としての槐多と同性愛者としての彼について言及した江戸川乱歩のエッセイ「槐多『二少年図』」や、
津原泰水によるオマージュ小説「音の連続と無窮変奏(槐多カプリチオ)」も収録。収められた作品は「美少年サライノの首」をはじめ、全集とも多く重複するが、
人肉の味にとりつかれた男が遂に少年を殺して食する姿を描いた「悪魔の舌」のような短編も含まれ、前述2編の原稿を読むだけでも価値がある。


『孤島の鬼』江戸川乱歩(春陽堂)
わたしはまだ三十にもならぬに、濃い髪の毛が、一本も残らずまっしろになっている」と語る青年・蓑浦は、自身の身に起こった恐怖の出来事を回想する。
婚約者・初代の密室殺人に始まり、「七宝の花瓶」の秘密をつかんだ友人・深山木も刺殺され、さらに深まる謎は彼を南海の孤島へと呼びよせる。
そこで彼が目にした世にも恐ろしいものとは――?
乱歩の冒険推理小説の中でも代表作とされる本作だが、謎解きや孤島のグロテスクなイメージにも増して印象深いのは、
主人公と、学生時代から彼に思慕を寄せる友人・諸戸道雄との関係が綴られていくくだり。前半の、諸戸の思いを知りつつ、
蓑浦が完全に拒絶するでもなく、かといって受け入れるでもなく付き合っていく光景の描写が、さして多くはないながらも鮮明なだけに、
後半、死を覚悟た諸戸が蓑浦に襲いかかる場面が狂気を感じさせて深く印象に残る。
実生活では美少年を愛好し、同性愛に関する資料の熱心な収集家でもあった乱歩だが、実際に作品中でそれを扱うことは少なかった。
他には「暗黒星」で、明智小五郎が依頼人の美青年に魅了されるという展開を見せるが、この二人の親密な繋がりも同性愛的な空気をはらんでいた。


『烏珠抄(ぬばたましょう)』七条沙耶(二見書房)
南北朝の対立もようやく終焉を迎えた時代、穏やかさを取り戻しつつあった民衆の目を奪った少年がいた。
玻璃(はり)の花のように妖しい美貌をもつその少年の名は、鬼夜叉といった――。
義満の寵愛を受けながら、権謀策術のなかで“鬼”として能に生きようとする、
のちの世阿弥の若き日の姿を、少女漫画原作者として活躍した著者が華やかな筆致で描いた作品。


『鬼ゆり峠』団鬼六(太田出版/上:狂愛の宴篇・下:悦虐の宴篇)
「――耐えるのです。たとえ、どのような羞ずかしめに合おうと熊造と伝助を討ちとるまでは、死んだ気持ちで耐え抜くのです――
と、姉の波路はいい残すように諭して、嬲りものにされるのを承知で引き立てられて行ったが、
ああ、それにしても、武士である身がこのような屈辱に耐え切らねばならぬとは――菊之助は姉の言葉を非常なものに感じるのだった。 
しかし、菊之助にとって、この屈辱の中でも耐え切れぬ辛さは、自分の狂おしい無念さまで無視した如く、
屈辱とは別に官能の芯が昂ぶり出した事であった。 簪でえぐられた途端、熱い刃物を突き立てられたような激烈な痛みが生じたが、
寸時の後にはその苦痛が名状の出来ぬ鋭く甘い肉欲の痺れとなって、腰までが疼き出し、
熊造の手に握り締められている肉塊はそれに反応したように鉄火のような熱気を帯びて来たのである。」(本文より)

老婆ひとりが住む峠の一軒茶屋。一夜の宿を請うた浪人は、はからずも老婆の口から彼女の人生の色懺悔と、
鬼ゆり峠の別名を持つこの地で果てた美しい姉弟の物語を聞くことになる。老婆の名は千津、無念のうちに死んでいった二人の供をした腰元だった。
千津が仕えた戸山波路は浜松五万石、青山家の家臣、戸山主膳の妻女で比類なき美女のうえに一刀流の達人であった。若衆髷も初々しい、
これも美貌の弟・菊之助と連れ立って無念の死を遂げた父の仇討ちに旅立つが、憎い仇たちの姦計にはめられ、
二人ながらに捕らわれの身となってしまう。悪の限りを尽くす仇敵の男たちは、美しい姉と弟をただ殺すだけでは済ませなかった。
あらゆる手段を用いて二人をいたぶり抜き、遂には被虐の喜びに到らせる。SM小説で高名な作者の「耽美時代絵巻」の主眼は、
やはり美女・波路への責めにあるものの、弟・菊之助も、女郎たちにいたぶられるだけでなく、仇たちと無理やりに衆道の契りを結ばせられる、
という展開になる。全体の中では、これらの場面は決して多くはないが、その描写は姉に対するものと同様、執拗である。
なお、本作は文庫化もされているが、太田出版から出たソフトカバー版のほうは、表紙画が天野喜孝(「アムール・プルミエール」)でお薦め。
同作者の時代小説で、同様の展開を見せるものに『修羅の花道』(勁文社/表紙画・笠井あゆみ)もある。
こちらは十七歳の前髪の美少年・梅三郎が敵の手にかかって嬲りものにされ、やはり衆道の契りを強要される場面がある。
本作は、2005年1月に『新・修羅の花道』というタイトルで改稿版が発行されたらしい(太田出版)。
因みに、こちらの表紙画はふたたび天野喜孝氏が手がけている。


「美少年」団鬼六(新潮文庫『美少年』収録)
主人公の〈私〉は、修善寺の温泉宿で大学時代の友人・山田幹雄と再会する。
昔語りのうちに思い出される、美少年・風間菊雄との関係。若松流という関西舞踊会の宗家の御曹司だった菊雄は、
芸名を若松菊香といい「澄み切った黒い瞳、柔らかな鼻の線、花びらのような形のいい唇、全体に気品と妖気のようなものさえ感じられる美男子」であった。
私は菊雄の美貌と才能、女よりも女らしい情の深さに惹かれて、手紙のやりとりから次第に深い関係になっていくが、
やがて世間の目や、自分を独占したがる菊雄との感情のもつれから、関係を断つため、彼を学生やくざだった山田に売ってしまったのだった。
死を目前にした旧友に出会い、自らも先が長くないことを自覚した老いた主人公が、己の身勝手を悔いる、というよりは、
ただはかなく思い出すという形式の物語だが、いずれにせよ彼はその裏切りの罪を最後まで背負いこんでいかなければならないのだろう、という苦い読後感が残る。
2000年に雑誌「プレイコミック」にて漫画化され連載された(作画:松久壽仁)が、その際、菊雄の容姿が松田龍平にそっくりだというので、一部で話題になった。


『履き忘れたもう片方の靴』大石圭(河出書房新社)
「僕は人の顔を長く覚えていることはできない。けれど、精液の味は一人一人違っていて、その味だけはいつまでも覚えている。」
「ヒロ」と愛称で呼ばれる主人公は、十七歳で新宿に流れてきた。
今は、ローラという年上の女性に囲われながら、男相手の売春、アダルトビデオの出演などに日々を送っている。
ある日、彼はヒムロという富豪の男と知り合い、彼に誘われるまま、監禁され調教を受け、やがて、彼の望みのまま豊胸手術を行い、
シーメールへと肉体を変貌させていく。第30回文藝賞佳作に選ばれた、現在ではホラー作家として知られる大石圭のデビュー作。
主人公の一人称で語られる物語は、あくまでも淡々としており、少年売春→調教→シーメールとして男の奴隷となる、
という展開も、語り口の静けさゆえにするりと読まされてしまうが、その経緯を辿る主人公の無感情さ=自尊心の無さこそが、
受賞時「全選考委員を凍りつかせた」のだろう。ヒロと、彼を買った男たちとの性描写は濃厚だが、
リアルさはあっても粘着性が感じられないのも本作の特徴だろう。
あるいは、そのリアルな性描写、監禁・調教の描写よりも、作者が本当に表現したいことは、
時折こぼれるように現れる主人公の過去や記憶についてのモノローグのほうにあるのではないか、という気がする。

「真夏。熱く焼けたトタン屋根の上に芋虫が枝から転げ落ちる。/一回、二回、芋虫は体をくねらせてのたうつ。/そしてそれっきり、もう二度と動かない。」(本文より)

尚、映画監督の廣木隆一は、本作についてこんなコメントを残している。
「両性具有になっていく主人公の喪失感をタイトルが示しているんだけど、これは今っぽいなぁという気がしてる。」 

『YES・YES・YES』比留間久夫(河出文庫)
「僕はこの街に来るまで、当然のことながら、男のあれを口に含んだり、男のあれを尻に入れられたりなんて経験はなかった。
そしてもちろんそんな趣味もなかった。そしてそれは今もない。
いや、ないと思う。そしてこの街に来て、実際、そういうひどいことになって、僕が壊れたかといえば、それは壊れるはずもなかった。
だってよく考えれば、好きなようにされるといっても、それはもともとは僕の意志から出てることなのだから。
当然、悲しみや不幸になるはずもなかった。だって僕が選んだことなのだから。」(本文より)


自分の中に『歌』がないことに気付いた少年ジュンは、いまの自分を一度バラバラに壊すため、『バー・アドレッセンス』の扉を叩く。
売り専のボーイとして働きはじめたジュンが夜の街で出会う、さまざまな男たちと、彼らとの行為。
全編ほとんど男性がらみのベッドシーンで構成されながら、巻末の柿沼瑛子氏の解説にもあるとおり、
そうした場面は主人公の視線を通した一種の清潔さに溢れ、生々しい行為というより、
自分がいかに「感じて」いるかというジュンの自由な感性に収束され、
また彼がそれらの行為から受ける感覚のほとんどをタイトル通り「肯定」していくため、全編にはエロティシズムよりむしろ清々しさが漂う。
「何か」を求めて夜の街に集まる少年たちの姿を描きながら、センセーショナルな風俗描写ではなく、彼らがその体を通してさまざまなことを知り、
希求する姿を描き、若い世代(主に女性)の圧倒的支持を得た、1989年文藝賞受賞作。とりわけ、本作の中でも特にページを費やして語られる、
最初の客と『歌舞伎』のママとの性行為は圧巻で、他者に「犯される」という行為により自分の中の〈女性〉を発見する感覚、
肉体にもたらされる驚きと喜びを微に入り細にうがって描いている。おそらく当時の審査員(男性の)が最も衝撃を受けたのは、これらの件(くだり)であろうと思う。

「そしてそれは今も続いている。今も僕は自分を、じっと凌辱に耐えている可哀想な女の子のように感じている。
別に鏡を見る必要もなく、奴の視線を感じることもなく、それは僕の心の中にある。
それはこの日、ずっと僕を、土星を囲む塵の渦のように覆っていた。それはいうなれば僕の快楽の外輪を形作っていた!」(本文より) 


『ハッピー・バースディ』比留間久夫(河出文庫)
16歳のバンビは、クラブ「人工の森」で働いている。バンビの体は男の子だが、〈彼〉は自分の中に〈男〉などいないことを、とうに知っていた。
わたしは女の子に生まれ変わる、そう決意して、徐々に自分の中の〈男〉を葬っていくバンビだが、心に迷いがひとつだけあった。
昔、バンビがクスリをやめたとき、その代わりに自分の新しい「魔法」になってくれた男友達のことだけが――。
16歳で〈女〉としての自分を新たに生む決意をした少年の歩みが潔く、理性や愛で自分を制するよりもまず、自分の魂が望む「かたち」を選びとっていく姿が清々しい。
少年の性転換という題材はスキャンダラスに捉えられがちだが、
「人間の決意と門出」を描いているという意味で、ひとつの優れた青春小説といえる作品。 


「踊るチャイコフスキー」比留間久夫(河出文庫『ベスト・フレンズ』収録)
6年前の2月、その明け方を共に過ごした男娼仲間の鷹のことを、ジュンは思い出していた。
チャイコフスキーの『交響楽第4番』を聴きながら、このシンフォニーを聞くと、きまって、チャイコフスキー自身が踊っている姿が浮かぶと話していた鷹。
そして『6番』は嫌いだと言った鷹。そのときの会話のすべて、彼と交わしかけた愛撫のすべてを――。
結婚を控えた主人公が、相手の女性と行ったコンサートでチャイコフスキーを聴き、過去を回想するという形式の短編。
愛と哀しみについて語る青年たちの会話(というより鷹の言葉)が全編に溢れ、
コンサートで耳を澄ますように、読者もそれを聞きとっていくような気分にさせられる。主人公の名前はジュンだが、
作者曰く『YES・YES・YES』の主人公とは別人らしい。


『少年サロメ』野阿梓(講談社)
召命を受けた少年アゾレスと、時の覇王ジャキューズとの恋の物語「覇王の樹」、人間に恋した天使の報われない思慕を描く「孤悲」、
アズラエルの王子サロメをめぐる権力の陰謀と、予言者ヨカナーンに寄せる激しい思慕を描く表題作など、
凝りに凝った設定(「少年サロメ」では、ワイルドの「サロメ」のみならず、
シェイクスピアの「ハムレット」が二重写しになる)と、官能性を重視した文体で描かれた、唯美SF短編集。
 

『月光のイドラ』野阿梓(中央公論社)
秋枝公彦は、事故で急死した恩師・遊佐教授の葬儀で、同級の少年・執行雅とはじめて言葉を交わし、
彼と共にフィールドワークの旅に出ることになる。その目的地である温泉郷・銀竜荘(ぎんりょうそう)には、
かつてこの地に亡命してきた東南アジアの革命家、ハリル兄弟にまつわる資料や痕跡が数多く残っていた。
民族主義団体の保護を受け、「その後の東南アジアにおけるイスラム宗教圏の原理主義運動に大きな示唆を与えた」といわれる兄弟の足跡を追う旅のなかで、
公彦と雅はしだいに惹かれあい、一夜を共にする。しかしその翌日、雅は失踪。残された公彦のもとに送られてきたものは、
ラバー製の拘束具で全身を締めつけられた少年の、エロチックなバーチャル映像だった……。
少年たちの恋を軸に、異郷の記憶(エキゾティシズム)、ボンテージ、征服欲、支配欲などを散りばめて、
選び抜かれた美しい言葉により絢爛たるアラベスク模様のごときエロスを紡ぎ出す作品。筋立てだけを抽出してしまうと、
政治・宗教色が強いようにみえるが、エンターテインメントとして作者があくまで重きを置くのは少年たちの相手を思いあう姿であり、
人間の血への執着など、愛と性に直結するものに重きが置かれている。
物語全体のテンポもよく、凝った美しい文体の印象とは裏腹に読みやすい。 

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